スキップしてメイン コンテンツに移動

日本は〝心〟という字に見える ─ 日韓永遠の架け橋たらんとした悲劇の知日家・朴鉄柱会長 ─

戦後ソウルに設立した「日本文化研究所

(高千穂商科大学教授) 名越二荒之助
「朴鉄柱大人を偲ぶ」より

恒久的な日韓友好を考えるうえで、避けて通ることのできない人物がおります。それは朴鐵柱という一人の韓国人です。彼は大正十一年(一九二二)、釜山市の東?(トーライ)に生まれ、大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。卒業後は釜山の龍頭山神社や、新羅時代から関係の深い下関の住吉神社(長門一宮、元官幣中社)に奉職しました。彼は学生時代から古事記・日本書記を通して、日本の成り立ちと天皇朝の存在に深い関心を寄せ、その尊貴性に目覚めていました。だから彼としては、神社に奉職することに何のためらいもありませんでした。

終戦後は韓国に帰りましたが、李承晩大統領の反日政権下にあって苦汁を嘗めさせられました。日本の学校を出た者は、「民族反逆者裁判条例」にひっかかって追放の憂目を見ました。やがて朝鮮動乱が勃発。その荒波をくぐって生きのび、動乱が終るとソウルに出て、昭和二十九年五月には、「日本文化研究所」(ソウル特別市中区奨忠洞二街一九七)」を設立しました。「社団法人・日本文化研究所」の「内容書」は、韓日両国語によって書かれており、「趣意書」の冒頭は次のような書き出しで始まります。

「日韓両民族は、各自悠久なる伝統と文化を護持してき、上古よりの密接なる文化的相互交流は、両民族の芸術、風俗、道義観にまで相似共通のものを形成してきたのであります。特に一衣帯水の地理的条件は、お互の全歴史を通じて政治的、経済的、協助を不可避にし、文化的、精神的にも緊密にして不可分離なる関係を確立してきたのでありま
す。」

「趣意書」は大局観に立って、悠久の日韓のあり方を踏えたものです。しかしながら両国の間に、文禄・慶長の役のような「互恵扶助の原理に違背したとき」があった。それは「久遠なる歴史に於てひとつの瞬間的な疾患であり、両国の健全な将来と恒久友和のための契機」にしなければならないとして、研究主題を次の三つに置いております。

一、日本上代文化の研究
二、帰化文化の研究
三、日本の信仰、道徳等精神文化の研究

韓国で朴氏が「日本文化研究所」を設立した昭和三十年頃の日本は、敗戦のショックから醒めやらず、自国文化を
否定し、罵倒する言論がまかり通っていました。その頃韓国で、日本の精神伝統と国体研究の運動が起ったことは、文
字通り驚嘆すべきことでした。もし当時から日本に、日本人の手によって「韓国文化研究所」を設立し、

一、韓国上代文化の研究
二、帰化文化の研究
三、韓国の信仰、道徳等精神文化の研究

を研究テーマとしていたらと思うのです。そして韓国の「日本文化研究所」と日本の「韓国文化研究所」が相互に研究交流を重ねていたら、日韓関係はいかに好転したことでしょうか。

まぼろしの遺著『日本と韓国』

この研究所は二階建でアパート風の「学生会館」を持っていました。会館には常時二十五名から三十名が共同生活をしながら、朴所長の講義を中心に勉学に助みました。日本語の勉強をはじめ、研究の中心テーマは、「日本の国体と歴史の究明、そして恒久的な日韓関係のあり方の探求」でした。塾生の心構えを、「学究修身、忍苦鍛練、弘道先駆」の三ケ条に置き、会員はソウルだけで千二百名に達しました。

朴所長は一方で『日本と韓国』と題する二八〇頁の著書(韓国語)を刊行しました。この本の題名は、『韓国と日本』ではなく、『日本と韓国』となっているように、全体の三分の二が日本に言及しており、日韓の恒久的安定を説いたものです。即ち
「日韓の安定のためには、日本は古事記さかのぼって、日本の本然の姿をとり戻すべきであり、韓国は韓国形成の 根源を知らねばならない。豊臣秀吉の“朝鮮征伐”(文禄慶長の役)とか、日帝三十六年の韓国統治とかは、長い日韓の歴史からすれば、派生的なことに過ぎな い。それは一時的な兄弟喧嘩のようなものである。日韓は相互に国家形成の原点に回帰すべきである。」
という主題をもったものでした。反日感情渦巻く韓国で、このような運動を展開したことは、何度もいうようですが、奇蹟にも等しいことでした。案に違わずこれが「反共法」にひっかかり、朴氏は裁判にかけられました。その結果著書は全部没収・焼却され、三年半の刑を言い渡され、「日本文化研究所」も解散のやむなきに到りました。

私が晩年の朴氏に会った時、当時発刊した『日本と韓国』を是非読ませてほしいと懇願しました。朴氏は「自分の手もとには一冊もない。しかし今も一人だけ持っている人がいるはずだから、捜して送る」ということでした。しかし遂に発見できなかったのか、「日本文化研究所・内容書」だけが送られてきました。別掲しているので、是非参照してほしいと思います。

日本人必読の名講演

朴氏は三年半の刑期を終えて釈放されてからも、「国家安全企画室(KCIA)」からの査察を受け、何回か投獄の憂目を見ましたそれでも初一念を曲げず「日本文化研究所」は名称を「韓日文化研究協会」と改め、細々と続けていました。資金なく、生活は文字通り赤貧洗うがごとき状態でした。

昭和四十一年、日韓基本条約が締結され、国交が樹立されました。昭和四十二年十月、私は「社団法人・国民文化研究会(小田村寅二郎理事長)」から派遣されて、学生たち七人(九大、長崎大、早大、上智大学等)と訪韓しました。韓国では、ソウル大、梨花女子大、高麗大、慶北大、そして中・高校では京畿、城南の学校訪問を行い、どこに行っても教師・学生を混えて懇談会を持ちました。当時反日感情の根強さは予想を超えるものがあり、豊臣秀吉・加藤清正の「朝鮮征伐」と「日帝三十六年に及ぶ侵略」を攻撃してきました。それに対して我々は「謝罪」をせず、当時置かれた極東アジアの状況を語り、反日的怨念だけでは健全なる愛国心は育たないことを強調しました。そういう「たたかい」のさ中の十一月一日、我々は朴鉄柱氏主宰の「韓日文化研究協会」を訪ねたのです。

その協会の建物は荒廃して目を当てられぬくらいでした。朴会長は荒れ果てた建物を指差しながら、「これで松下村塾なみになりましたとカラカラと笑いました。朴氏は吉田松蔭のような生き方をもって、日韓永遠の架け橋たらんとしていたのです。私たちが来るというので、朴氏の弟子数人も集まっていました。朴先生と弟子たちの目は爛々と輝き、底知れぬ迫力を感じました。対座していると、反日砂漠の中でオアシスに出会ったような安らぎを覚えました。

朴会長は我々の訪問を待ちかねたように、語り始めました。それは堰を切った急流のように溢れ出て、とどまることを知らず、三時間がアッという間に過ぎました。
「韓国から日本をながめていると、日本が〝心〟という字に見える。北海 道、本州、四国、九州と〝心〟という字に並んでいるではないか。日本はすばらしい。万世一系の御皇室(御をつけらる)を戴き、歴史に断絶がない。日本固 有の神道が、現在に至るまで相続されており、全体が調和された形でできている。〝八紘為宇〟という考え方は、日本の大らかさの現れであって、これは積極的 に世界に知らせる必要がある。それに較べて韓国の歴史は、悲惨であって断層が深く、涙なくして見ることはできない。暗い場所から見れば、明るい所は余計にはっきりと解る。韓国は日本文化の豊かさの中から学ぶことによって、内面的支柱を確立するよう努力したい。」
「韓国の檀君神話といっても、あれは高麗時代、モンゴルの支配下に置かれた時、 一然上人が民族精神を振起するためにまとめたもので、高麗神話の性格が強い。ほかに新羅や百済や駕洛にも神話がある。韓国は、日本のように統一した一つの 神話にはなっていない。日本神話は、ギリシャやユダヤの神話に較べて明るく、ロマンの香りが高く親しみやすい。それに日本神話は檀君神話より四百年も前に まとめられた。私が日本神話に内面的親しみを感ずるのは、日韓は同祖だと信ずるからである。それは民族学的な立場からも立証できる。韓国は古来から祖先信 仰と自然崇敬の念が強く、山神霊廟があり、それらをまつるために、『鳥居や『しめなわ』『ヒモロギ』を使ってきた。それに日韓両国には、「白衣」の思想が あった(これらは中国にはない)。
日本の神職は、神に近ずく時には白衣を着る。韓国民も霊廟に参拝する時には白衣を着るし、目上の人に会う時にも白衣を着るのが礼儀となっている。まず自らの身を浄める訳である。」
「第二次大戦後の日韓関係は、李承晩政権の影響もあって、共産主義以上に日本を 憎む傾向があった。そのため日韓の氷山の一角を誇大に強調して、隠された部分を見落していた。お互いの精神的歴史的豊かさを掘り起す努力をしようではない か。そのために日本は自信をとり戻して、おおらかに民族形成の原点に立ち返ってほしい。」
「現在の日本人の自信喪失は敗戦に帰因しているが、そもそも大東亜戦争は決して 日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後までとり組んだ。それまでの日本はアジアのホープであり、誇り高き民族 であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。〝事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし〟というのが、 開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦 争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争-この二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調し過ぎ ることはない。」
「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスを始めとする植 民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって 決る、というのはクラウゼウィツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、〝聖なる戦争〟であっ た。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐ回復できたではないか。二百数十万の戦死者はたしかに帰ってこないが、しかし 彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである。」

私の反論とエール交換

豊かな語彙を駆使した熱誠あふれる朴会長の雄弁は、日本人必聴の名講演でした。朴氏は当時四十五歳。油の乗りきった頃の、文字通りいのちのほとばしりともいうべき流露でした。今もその時の一語一語が鮮やかに甦ってきます。それに対して私は日本側団長として何か應えなければなりません。私は実は朴氏の名調子を聞きながら、一方では何か空しいものを感じていたのです。朴氏は韓国人ではないか。韓国人なら韓国人らしく韓国の誇りを語るべきではないか。日本人以上の日本讃美をやられるのはおかしいではないか。私もあの時四十四歳。韓国ではどこでも論戦をやってきたので、その癖が頭をもたげたのです。私は次のように「反撃」しました。
「私はこれまで外国人による日本讃美の言葉をいろいろ聞いてきた。しか し今聞いた朴会長程の徹底した日本讃美を聞いたことがなかった。過激とも思われる日本讃美論には圧倒されてしまって言葉がない。しかし朴鉄柱先生は韓国人 ではないか。韓国人なら韓国人らしく、韓国讃美をやられたらどうか。韓国に来てまで〝日本讃美〟の言葉を聞こうとは思はなかった。

韓国は素晴らしい。半島国家という地政学的な悪条件下にあって、韓国は独自の文 化伝統を失はなかった。北からは隋や唐や元に攻められ、戦後は北朝鮮からも攻撃された。そして南からは日本の侵入を受けたことも何回かある。サンドウィッ チのようになりながらも韓国はその都度甦り、不死鳥のように立ち上がった。そして現在は檀君紀元を復活させ、国防意識に燃え、民族としての誇りに生きてい る。それに対して我が日本は、たった一度の敗戦で神話を忘れ、歴史を否定的に見、民族の自覚も誇りもなく、経済成長にうつつを抜かしている。我々こそ多くの教訓を韓国から学ばなければならない。」
私は朴氏程の迫力はなかったが、このように「逆襲」したのです。韓国民の朴氏は日本讃美をやり、日本国民の私は韓国讃美をやった訳です。このような相互のエールの交換によって、私は朴氏と深い友情に結ばれるようになったのでした。

初心に生きた晩年の朴氏

その後朴氏は半身不随の大病にかかり、会うこともできなくなりました。しかし氏は長い闘病の末漸く回復して来日しました。それは十数年後の再会でした。しかしその時、朴氏には昔日の迫力は失せていました。ギラギラと磨ぎすましたような切れ味も、シャープな語り口もどこへ行ったのか。昭和四十二年に会った四十五歳の時の朴鉄柱氏の印象が余りに強烈であったために、挨拶を交
しながら、我が目と耳を疑った程でした。

氏はその後次第に健康をとり戻しましたが、昔日の「朴鉄柱」ではありませんでした。氏は玄洋商事株式会社の代表理事(取締役社長)として新事業にとり組始めました。度々来日するようになり、その都度私は彼の宿舎を訪ねました。事業の内容についてはお互に触れたことがありませんが、一度だけ私の方から、「武士の商法がうまくいっていますか」と聞いてみたことがあります。それに対して「やりたくてやっているんじゃありません。決して初心は忘れてはいません。日韓の架け橋となる運動を展開するために、先立つものを用意しなければ…」と答えるだけでした。

その間私は朴氏に、何度か著書の刊行をすすめました。朴氏もそれを考えており、目下執筆中でもある、とのことでした。翻訳の事を質ねると、「自分はいつも日本語で発表しているし、韓国語より日本語の方が書きやすいので、日本語で書く」と、もらしていました。

テーマは二つあって、一つは明治の頃の『日韓併合史』、もう一つは『満洲事変後の日韓関係史』の二本立で行きたい、としてその梗概を聞きました。私は聞きながら、これができれば「日本を犯罪国家に見たてた『日帝三十六年史』がひっくり返るのではないか。日韓友好の原点を示す名著として、古典的価値を持つに違いない」私は何度かこの点を力説して激励しました。癌に侵されてからも来日されたので、「朴鉄柱の名を不滅たらしめる著書」の執筆を懇願しました。それが病気を超える活力になると思って、東京から電話で激励したこともあります。

しかし癌と戦いながらの執筆、それに資料の不足もあり、事業の後始末にも追はれ、遂に完成を見ないままに他界されてしまいました。御本人の無念を思えば、想像を絶するものがあります。今は前述した『日本と韓国』と共に、「まぼろしの名著」として語るよりほかなく、何としても残念の一語につきます。

考えてみれば、日本人以上に日本を知り、日本を愛し、永遠の日韓友好の道を説き、中途にして戦い倒れた朴鉄柱氏の生涯でした。このたび「日本の戦友」として忘れてならない悲劇の韓国人を追悼し、記録に留めるべく、文集出版の運びとなったのです。

出版のために一念発起された伊藤行宏、野村健、京田葦男の三氏に心から敬意を表しっつ、最後に晩年に語られた朴氏の言葉を思いだすままに紹介して筆を擱きます。
「日本統治時代、私の父は頑固に改姓に反対したが、私は自発的に〝新井 清資〟と改名した。それでも私は後悔していない。フィリピンはスペイン統治時代には、スペイン流に改名した者が多かった。建国の偉人と仰がれているホセ・ リサールはスペイン式の名前なのだ。ベトナムへ行けばフランス人のような名前が多く、アメリカに住む黒人の中にはスミスとかジョージとか、英語国民の名が 多い。ポーランドに住むドイツ人は、ポーランド式に名を改めている者もある。

現在日韓両国では、〝創氏改名〟を悪政のように言っているが、あの頃自発的に改 姓した者も多かったのだ。それに日本は改姓を強制した訳ではなかった。南次郎総督時代に、「内鮮一体」の掛声が高くなり、「朝鮮民事令」を一部改正して、 家の制度を確立するために、〝氏〟を名乗ることができるようにした。昭和十五年二月一日から六ケ月間に届け出た者に限って、改姓を認めた訳だ。すると改姓 しなければ不利になると脅したりして、各地で創氏者数を競い合うようになった。全羅北道のある面長(日本の県長にあたる)や小学校長が改姓しなければ子供 を学校にこさせないと迫ったために、両班の薛氏が井戸に投身して自殺する悲劇が起った。そういう悲劇が起ったが、結局七九%が改姓した。しかし改姓しな かった者も多かった。例えば日本の陸軍中将にまでなった洪思翊は、改姓しなかった。それでも彼は日本帝国陸軍中将として刑死した。」

「日本統治時代、私は『朝鮮人』として差別されたことはある。配給の砂糖等が、 朝鮮人なるが故に貰えなかったことがある。屈辱を味わい、残念に思ったことがあるが、それらは心ない一部の日本人の仕業であって枝葉の事である。いつまで も枝葉にとらわれる事は日韓の不幸である。日韓は大所高所に立って、恒久の友好策を考究しなければならない」。 

週間アクセスランキング

日本国憲法の研究 ―合衆国憲法との比較 前文

これから日本国の新憲法草案を提案しよう。どうしてそう思ったかは単純だ、今の日本国憲法は近代憲法の要件を満たしていないと思われるからだ。近代における国家は主権者である国民の国家形成への強い意志によって成り立っているとする。―するとしたのはもっと奥深い部分では違うと考えているが、近代に対応するためにそう仮定することにしよう。

近代思想において国家は、たとえ国民がひとりでも、国民意志があれば形成することができるとされる。しかしそれは利己的な個人意志ではない。五箇条の御誓文で公論と示された、意志を国民主権では民意というのであって、それがなければ近代国家は存在しないのである。さらにその意志は個々人の中にある不条理で熱い志であり、それを顕現しあるいは不当な隷属の強要から擁護されなければならないと考えている。

そして近代における憲法はその国家を統治する権力を制限するために制定するものであり、国民から政治権力への手紙であり、もっと強く表現すれば命令書として機能するのもである。よって国民が必ずしも従うべきものではないという性質のものである。
統治体というのは国際的には近代国民国家が国際関係を維持するため、またはその関係が破綻した場合に起きる紛争を解決したり、戦争を遂行し条約を締結するための代表府である。同時に国内においては共同体秩序を維持発展させるために制度や法律を制定する立法府、制定された法律をもとにそれを執行する行政府、そして行政が正しい手続きで行われているかを監視したりあるいは手続きの瑕疵を判断する裁判所などの組織のことである。

しかしこれらの組織は主権者である国民の自由を拘束したり法律を不当に行使したりする可能性があるので主権者は組織に対し、してはいけないことと、積極的にしなければならないことを文書によって命令する、それが憲法の本質なのである。そういう視点をもって世界最初の憲法らしい憲法であるアメリカ合衆国憲法と戦後アメリカの占領下制定された日本国憲法を比較してみよう。

アメリカ合衆国憲法(日本語訳)
前文
われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。The Constitution o…

国際関係論で論じられる理想主義

リベラリズムほど解釈が多様にある言葉はないと思う。日本語では自由主義と訳される場合が多いのだが、昨今では自由主義とリベラリズムは対立する政治姿勢ともいえる。よって自由主義をリバタリアニズムと呼ぶのが一般的になりつつある。本稿の場合はリベラリズムを社会自由主義的な用法、ようするに国際関係論で論じられる理想主義として論じることにする。

20世紀の戦争 20世紀は戦争の世紀と呼ばれるように産業革命による技術革新が戦争を巨大化、無慈悲化させた。世界は巨大化・無慈悲化する戦争に対して、一定の規則を締結したが、その後に勃発した第一次世界大戦は大規模かつ無慈悲な消耗戦によりヨーロッパ社会に大きな衝撃を残した。

第一次世界大戦の塹壕戦や化学兵器の使用は、ただ敵を消耗させるための戦略で、それまでの戦争とは様相が大きく変化した。戦争は国家が軍に命令して、軍が名誉をかけて行う営みから、国家国民全体で行う営み全体戦争つまり総力戦へと変容した。

パリ不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)は大戦のような悲惨な戦闘を二度と繰り返さないために交戦国、非交戦国も含めて63カ国が署名した。目的は戦争の違法化、特に侵攻戦争の違法化を目指したが、最終的には侵攻戦争を非難するにとどまった。


貧困が戦争を起こす もし社会が現状で固定されるとしたら、現在比較的幸福な人はいいが、もし不幸な人はどうだろうか。それはその人の希望を奪い去ることになる。国家同士の戦争もある一面では現状に満足できない国家と、それを阻止しようとする国家の営みといえる。

第一次大戦後ヨーロッパの比較的裕福な人々の間で戦争が二度と起こらないように、家族友人の死、あるいは戦争による破産などの不幸をなくすには、どうしたら良いか考えられたのは自然なことだ。そして彼らは結論した。「貧困が戦争を起こす」。

大戦中ロシアでは革命が起こりソ連邦が誕生する。国民(ソ連に国民がいたかは定かでないが)に貧困のない平等な生活を提供する統治体の出現に、ヨーロッパのエシュタブリッシュメントは期待と不安の眼差しを向ける。
リベラリズムの誕生 フランス革命の惨劇を経験しているヨーロッパの裕福な人達は、現状を維持しながら戦争を防止する政治体制の確立を急いだ。そのような背景でリベラリズム理論が誕生することになる。その理論は金持ちはそのまま、貧乏人はもう少しお金持ちにすることだ。

日本国憲法の研究 ―合衆国憲法との比較 第1章

近代憲法は、主権者である国民の意志として、組織される政府に対する命令書なので、前文は、その意志を表現したものがふさわしい。そしてその目的を明確にする必要がある。さらにその目的のために、憲法を制定するわけなので、そういうことを頭に入れたうえで、再び前文を読むと、合衆国憲法は、

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。
目的意志がシンプルかつ明確に表現されている。これと比較して、日本国憲法における国民意志もしくは達成したい目的は、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。に色濃く現れ、

これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
が次にくる。なぜわざわざ一切の憲法と法令と詔勅と断る必要があるのだろうか。ここにこの憲法を制定した意志があるのではないだろうか。そして最後には、

国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

目的を達成することを、宣言命令するのではなく誓ふ。さらに誓ふ対象も明記されていない。我々日本国民は、誰に対して目標を達成することを誓ふのだろうか。 これに答えを出せる憲法学者や国会議員が、我が国にはどれほどいるのだろうか。国民はそれを疑問とも考えていないのだろか。

第 1 章はその意志を具体化する、そして目的を達成するための第一歩ということだ。最重要なことを最初に申し述べているのである。アメリカ合衆国にとって最重要なことは法の支配、法による秩序であり、日本国では天皇―スメラミコトによる秩序―これをしらすという―であるということだ。大日本国憲法では、

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

と統治の根拠となる天皇が過去、現在、未来に渡つて、日本国と日本民族の秩序の源であることを示している。この場合の統治とは伊藤博文が解説するように、しらすであり現実的な権力、うしはくと厳密に分けなければならないのである。

合衆国憲法は合衆国の秩序は法によって護られるゆえ、第 1 章では立法府についての規定が列記される。一方、日本国憲法では天皇についての条項が…

年次改革要望書

サイトで偶然みつけた原文の、いわゆる「年次改革要望書」だが、TPPと比較してみても面白い。アメリカの戦略なのか執念なのか、はたまた信仰なのか、1994年からもう20年くらいやってる市場開放交渉だ。我国政府も辛抱強くそれに対応していることがわかる。

TPPとはなにか ―GATT・WTO体制から考えるTPP

TPPというのはWTOが認めるGATT体制の例外で、自由貿易協定や関税同盟などの地域貿易協定のことだ。そのことについての議論が国会の場でもあまりされていないように思う。おがた林太郎元衆議院議員のブログそもそもFTAとはというエントリーがあり、自由貿易協定の根拠はガット24条だということを知らない議員が多いと指摘している。

経済産業省の説明では自由貿易協定(FTA: Free Trade Agreement)と関税同盟(Customs Union)を総称して地域貿易協定としている(RTA: Regional Trade Agreement)が、これらはGATT・WTO体制の例外として認められている協定で、それを規定しているのがガット24条という事になる。経済産業省のHPに関税及び貿易に関する一般協定、GATTの翻訳が掲載されている。
この協定の適用上、
(a) 関税同盟とは、次のことのために単一の関税地域をもつて二以上の関税地域に替えるものをいう。
(i) 関税その他の制限的通商規則(第十一条、第十二条、第十三条、第十四条、第十五条及び第二十 条の規定に基いて認められるもので必要とされるものを除く。)を同盟の構成地域間の実質上のすべての貿易について、又は少くともそれらの地域の原産の産品 の実質上のすべての貿易について、廃止すること。
(ii) 9の規定に従うことを条件として、同盟の各構成国が、実質的に同一の関税その他の通商規則をその同盟に含まれない地域の貿易に適用すること。
(b) 自由貿易地域とは、関税その他の制限的通商規則(第十一条、第十二条、第十三条、第十四条、第十五条 及び第二十条の規定に基いて認められるもので必要とされるものを除く。)がその構成地域の原産の産品の構成地域間における実質上のすべての貿易について廃 止されている二以上の関税地域の集団をいう。 TPPも含む地域貿易協定の根拠は24条にある。つまりTPPにも最恵国待遇が適用されるということだ。一応経産省のHPから最恵国待遇のPDFにリンクを張る。

WTOはその前進であるGATT(General Agreement on Tariffs and Trade) 関税及び貿易に関する一般協定が機関に昇格したものだが、実は国際通貨基金、世界銀行と並びブレトン・ウッズ体制の枠組みとして発足する…

TPPを締結できるか ―日本国憲法から考える

日本国憲法はその制定過程に疑義があるが、陛下の御名御璽のもと、施行されたのであるから、現在の政府はそれを遵守しなければいけないことは当然だ。しかし今回TPPについての議論を憲法の論点から整理をしながら思うことは、憲法を国会議員が全く意識していないし、ましてや遵守など微塵もされていないことに愕然とする。条文は、
第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 つまり、政府関係者は尊重擁護する義務があるのだが、自らの権限範囲つまり既得権擁護の議論にしか終始していないことには悲しみを覚える。

まずTPPなどの多国間協定は名は協定だが国家間の約束であるから、条約法に関するウィーン条約で定義される「条約」である。
第二条 用語
1 この条約の適用上、
(a) 「条約」とは、国の間において文書の形式により締結され、国際法によつて規律される国際的な合意(単一の文書によるものであるか関連する二以上の文書によるものであるかを問わず、また、名称のいかんを問わない。)をいう。 さらに関税などの通商に関わる条約を通商条約といい、現在はWTO・GATTで規定されている。日本国憲法では、条約などの外交交渉は、内閣の専権事項である。
第七十三条 
三  条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。 しかし、内閣は事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とするとあるように、締結した条約の批准は国会の権限になる。国会が批准しなければ国内的な効力は発生しない。

日本国政府は世界貿易機関を設立するマラケシュ協定を締結批准しWTOの構成国である。これは憲法の九十八条第2項の規定により国内法を改正して対処しなければならない。
第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2  日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。 しかし憲法の条規に反する如何なる法律、命令、詔勅、及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しないとあるように、もし内閣が事後承認を要求した場合、締結した条約は国際的な効力を発生させるとされるのだが、国内的…

小和田恒悪玉論を問う ―衆 - 外務委員会 - 1号 昭和60年11月08日 その2

引き続き、村田春樹さんが國民新聞に書いた記事「小和田恒悪玉論を問う」への激励投稿を続けたいと思う。さて国会会議議事検索システムで昭和60年11月8日衆議院外務委員会の土井たか子委員の質問に対する答弁を検証しよう。

北朝鮮は日本の脅威ではない

北朝鮮の核開発問題は、日本にいろいろな教訓と示唆を与えてくれる。現在日本は、米韓と共に北朝鮮と対峙しているが、日本は、北朝鮮となぜ敵対しているのか、本当の敵は北朝鮮なのかという根本的な命題は、マスコミはじめ識者でも語られないままだ。今回はその辺を整理しよう。


北朝鮮問題の歴史的経緯 朝鮮民主主義人民共和国建国 1910年8月29日、大韓帝国は、日韓併合条約を専制君主である皇帝純宗が裁可することで、大日本帝国との合邦国となった。1945年4月12日、米国は、大日本帝国敗戦後の朝鮮半島統治に関して38度線での分割統治を提案する。1948年9月9日朝鮮民主主義人民共和国の成立は、その年の8月15日大韓民国の成立とともに、朝鮮半島における米ソの対立をより明確にすることになった。

共産主義による世界統治の実現のため、1950年6月ソ連及び、1949年に建国した中華人民共和国の支援を受けて、38度線を越境し大韓民国に進攻戦争を開始して朝鮮戦争が勃発する。大韓民国に駐留していた米軍を中心に国連軍―正式な手続きを経ていないので実質は国連派遣軍若しくは多国籍軍、が組織され、これを迎撃することになる。



朝鮮戦争 1950年6月25日宣戦布告なしに38度線で北朝鮮ソ連中国連合軍の砲撃が開始され、10万を超える兵力が38度線の越境を開始する。当時の韓国軍は兵力約11万人で装備は脆弱であった。さらに、北朝鮮のスパイ掃討戦や軍内部のスパイ粛清で士気は疲弊していた。米国及び国連は動揺するが、6月27日には国連安保理で北朝鮮を侵略者と認定して、その行動を非難する。さらに軍事行動の停止と軍の撤退を求める「国際連合安全保障理事会決議82」を賛成9反対0:棄権1の全会一致で採択した―ソ連は欠席。
韓国軍の崩壊と国連軍の敗走 韓国の李承晩大統領は、6月27日南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人を裁判なしで虐殺した―保導連盟事件。同時に、ソウルを放棄して水原に遷都した。このとき漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した―漢江人道橋爆破事件。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、韓国軍の士気がさらに下がることになる。

国連軍を指揮した、マシュー・リッジウェイ将軍は、退却する韓国軍が放棄した装備は、数個師団だったと述べ…

農協は必要か ―農業保護政策は農家保護ではなく、農林水産省OBとJA職員の保護にすぎない

この冬、北海道にずいぶん出張したのだが、その時聞いた話題を提供しようと思う。

通州事件の体験記 ―気の弱い人は讀まないでください

通州事件は 、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民に対する虐殺事件である。その体験記がある。讀むのも恐ろしい体験が綴られているのだが、歴史的事実を知るには貴重な記録であるので本誌の読者にも紹介する。あまりも惨たらしい体験記なので気の弱い人は讀まない方がいいと思ふ。
日本人皆殺しの地獄絵 私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあっ…