日本国憲法の研究 ―合衆国憲法との比較 第1章


近代憲法は、主権者である国民の意志として、組織される政府に対する命令書なので、前文は、その意志を表現したものがふさわしい。そしてその目的を明確にする必要がある。さらにその目的のために、憲法を制定するわけなので、そういうことを頭に入れたうえで、再び前文を読むと、合衆国憲法は、

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。

目的意志がシンプルかつ明確に表現されている。これと比較して、日本国憲法における国民意志もしくは達成したい目的は、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。に色濃く現れ、

これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

が次にくる。なぜわざわざ一切の憲法と法令と詔勅と断る必要があるのだろうか。ここにこの憲法を制定した意志があるのではないだろうか。そして最後には、

国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

目的を達成することを、宣言命令するのではなく誓ふ。さらに誓ふ対象も明記されていない。我々日本国民は、誰に対して目標を達成することを誓ふのだろうか。 これに答えを出せる憲法学者や国会議員が、我が国にはどれほどいるのだろうか。国民はそれを疑問とも考えていないのだろか。

第 1 章はその意志を具体化する、そして目的を達成するための第一歩ということだ。最重要なことを最初に申し述べているのである。アメリカ合衆国にとって最重要なことは法の支配、法による秩序であり、日本国では天皇―スメラミコトによる秩序―これをしらすという―であるということだ。大日本国憲法では、

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

と統治の根拠となる天皇が過去、現在、未来に渡つて、日本国と日本民族の秩序の源であることを示している。この場合の統治とは伊藤博文が解説するように、しらすであり現実的な権力、うしはくと厳密に分けなければならないのである。

合衆国憲法は合衆国の秩序は法によって護られるゆえ、第 1 章では立法府についての規定が列記される。一方、日本国憲法では天皇についての条項が列記される。アメリカ合衆国では法による支配が宣言され、その法によって、法律を作る権限、立法権が立法府にあることが明記されている。同時に立法府の権限(制限)が細かく書かれている。


アメリカ合衆国と日本国との大きな相違は、憲法以前の邦の歴史が浅いアメリカと、憲法以前からの邦―近代的な国家ではないが―の歴史が長い―統治される民と統治者、秩序、習俗、歴史、伝統、文化が存在した―日本国ということである。アメリカはそれらをひっくるめて、法の支配に置き換えてシンプルに表現した。一方、日本国憲法では、

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

先出の大日本国憲法の第 1 条には及ばないものの、天皇のあり方や存在をうまく表現しているとは思う。しかし重大な思想が欠け、ある思想盛り込まれていると感じるのは筆者だけではあるまい。それは国民の総意に基づくという一文に込められている。つまりその地位は国民の総意が得られなければ失う、または失わせることが出來得る可能性を、示唆させているのである。この場合の国民とは有権者を想定しているのだろうか。

アメリカは法の支配という、イギリス流のコモンロー思想を引き継ぐことによって、新しき国家に秩序をもたらそうと考えた。それは国王や大統領も護らなければならないものである。この場合の国王とは今日的な政治権力と同等の意味になる。思想家バークによれば時効の原理によって、変更が許されない國體があり、今日的政治権力といえどもそれを変更できないとした。

ここで保守主義を標榜する読者から論理破綻の指摘を受けるかもしれない。前文の章から筆者は国民主権―popular sovereignty と民主主義―democracy について擁護する書き方をしている。筆者はバーク的保守主義を基礎に政治制度を考えるひとりだが、近代憲法とは政治権力を制限する国民からの命令書であるという立場と、バークが否定した国民主権や―democracy を民主政体か民主政府と訳すほうがより正しい―、民主主義は、フランス革命当時の制度とは異なると考えているので、国民主権も民主政体も、バーク的な保守主義とは矛盾をしないと考えている。

小室直樹博士のことばを借りれば「國體の中に国民主権―popular sovereignty と民主主義―democracy があればよし」ということだ。もう少し述べれば近代国家の主権者である国民は時効の國體を擁護する義務を負うということである。

日本という国(社会)は、天皇と民草―日本民族、天皇に帰依した人々という枠組み―プラットホームでのみ存在するということである。―欧米では市民社会というのだろう―。我々近代的主権者が、近代的な国家を組織する時、主権者も、組織される三権府も、この枠組を破壊する、あるいは変更するような、いかなる法律を制定することも裁定することも、あるいは権力を行使することもしてはいけないのである。

日本国憲法の第 1 条にはその思想が欠け、憲法もしくは法律の―つまり三権の枠組みのなかでの天皇―すなわち肇国の國體を変更できる権限が含有されている、ことがわかるのである。もう一度引用するが、

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 

第2条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

第8条  皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。
この3つの条文から汲み取れるのは、国会の議決によって御皇室に関わる重要事項が変更できることを明らかにしている。合衆国憲法が、法の支配を受け入れ、その枠組みのなかで立法権を立法府を付与し、その権限を制限しているのとは大きく異なる。つまり国家秩序を法の支配=天皇と仮定すれば、合衆国憲法は法の支配>立法府なのだが、日本国憲法は天皇<国会になっているといえないだろうか。

さらにこの議論はのちに詳しくするつもりなのだが、合衆国憲法には明確に立法府に徴税権、戦争権(防衛権)、徴兵権、通商権に関する法律を制定する権限が付与されているが、日本国憲法にはもちろん天皇にその権限はなく、この後調べる国会にも内閣にも、これらの近代国家が基本的に保持(制限)すべき権限の明記がない。

我々は一体誰に徴兵され、自衛隊のロイヤリティはどこにあり、貨幣は誰がつくるのか、税は誰が徴収するのかも明記されていない。国会や政府はいかなる権限で税を徴収しているのか、答えていただきたいものだ。