正しい戦争とは ―戦争の話をしよう三発目の核爆弾で日本人が死ぬ前に

昨年話題をよんだこれからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学はハーバード大学のマイケル・サンデル教授の著書である。教授はロールズの批判したことでも有名である。

同様にロールズを批判したウォルツァーはイラク戦争を支持した。彼らの議論は「"Just War"正戦論」に関するふるまいの違いだ。では「"Just War"正戦論」とはなんであろう。WIKIPEDIAから引いてみる。

ローマ哲学とカトリックに起源をもつ、軍事に関する倫理上の原則・理論。西ヨーロッパにおいては「正しい戦争」「正しくない戦争」を区別することで、戦争の惨禍を制限する事を目指して理論構築がなされた。聖戦とは概念が重なる場面もあるが、多くは別枠で論じられる。

日本人の多くが考えるように戦争="悪"と考える戦争絶対悪論とは違い、正しい戦争と正しくない(悪ではなく)戦争とを分けて考える。 カトリックによる「聖戦」とも違う。カトリックによる聖戦とはなんであろう、
  1. 神による直接的、あるいは特別な人間や制度を通した間接的な命令で行われる
  2. 宗教の、防衛・拡大・社会秩序の確立を目的とする
  3. 宗教共同体と、それに属さない人々との間で行われる
  4. 戦うことが義務となっている
では"Just War"とはなんであろう、まず、戦争が正しくあるために「戦争のための法(jus ad bellum)」が規定される。
  1. 正しい理由(攻撃に対する防衛・攻撃者に対する処罰・攻撃者によって不正に奪われた財産の回復)の存在
  2. 正統な政治的権威による戦争の発動
  3. 正統な意図や目的の存在
  4. 最後の手段としての軍事力の行使
  5. 達成すべき目的や除去すべき悪との釣り合い
そして「戦争における法(jus in bello)」には、戦争が正しく行われるための条件が規定される。
  1. 戦闘員と非戦闘員の区別(差別原則)
  2. 戦争手段と目標との釣り合い(釣り合い原則=不必要な暴力の禁止)
(以上WIPEDIAより引用)ヨーロッパはなぜこのような議論を発展させてきたのだろうか。それは彼らの歴史が醸成させたのだと考える。

まず侵略への恐れである。旧くはペルシャ、モンゴルであり近年またイスラムとの争いと、ヨーロッパキリスト文明は常に侵略の危機と戦ってきた。さらに権力者の虐殺もあった。ランドパワーとキリスト教で書いた、初期の暴君ネロや、中世における十字軍によるカタリ派の虐殺は、政治権力による迫害虐殺が避戦信仰が暴力に対して無力であることを表している。信仰者としての実践と生き残りという現実との狭間で彼らが折り合いをつけたのが聖戦であり、その延長線にある正戦なのである。

世の中の暴力は根絶しなければならない。すべての人類が人類教が救世主によってもたらされれば暴力は根絶できるかもしれない。しかし現実はそうではない。家族のいがみ合いは、地域に発展し、それが共同体と共同体、国家間、文明間や宗教間にまで限りなく発展していく。

特に革命戦争や宗教戦争は、民衆のパッションが高まり通常の国家間の国益を重視する戦争と違って、考えられない虐殺が起こることは歴史が証明している。結果負けた側は歴史の記憶から抹殺されることになる。先のカタリ派は史料が全く存在しないのである。

東日本大震災、福島第一原発事故が発生した時、政府やマスコミは「想定外」という言葉を連発したが、戦争という人災は、自然災害と違って同じ人間が起こすことであるから、「想定外」では許されない。この災害を機に国民全員で戦争の話をしようではないか。三発目の核爆弾で日本人が死ぬ前に。

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