教育勅語の真実 ―世界から称賛される日本人の美質を育んだ 伊藤哲夫著

教育勅語の真実―世界から称賛される日本人の美質を育んだは井上毅と元田永孚の苦心惨憺しながらも真摯で忌憚のない教育勅語起草の感動物語だ。

維新後、当時の思想は乱れ、明治天皇の師であった、元田永孚は「維新以来教育之主旨定まらず国民之方向殆ど支離滅裂に至らんとす」と山県有朋に手紙を送っている。明治天皇は教学聖旨を伊藤博文に下賜していたが、実際の執筆者が、日本の近代化そのものに否定的な考えを持っていた保守的な儒学者で侍補の元田永孚であることが分かると、伊藤は井上毅に命じて反論書「教育議」を提出する。教育勅語を起草した二人は教育の方針ではまったく相反する考え方を持っていたのである。

教育勅語の最初の原案は、当時の芳川顕正文部大臣が西国立志編の著者で東大教授であった中村正直に執筆を依頼して作成する。しかし法務大臣であった井上毅はこの案に「文部の案はその體を得ず」反対したばかりか廃案にしてしまう。そこで山縣は井上に原案の作成を依頼するのである。井上は依頼を受けるのだが苦心惨憺することになる。井上は作成にあたり7つの条件を考えたという。
  1. 教育勅語は他の政事上の勅語と同様であってはならない
  2. この勅語には天とか神とかいう言葉を避ければならない
  3. この勅語には幽遠深微なる哲学上の避けざるべからず
  4. この勅語には、政治上の臭味を避けざるべからず
  5. 漢学の口吻と、洋風の奇習とを吐露すべからず
  6. 消極的な言葉を用いてはならない
  7. 世にあらゆる各派の宗旨の一を喜ばしめて、他を怒らしむるの語気あるべからず
井上の作成した原案は発布された勅語に非常に近いものであった。井上は同郷の先輩であり、明治天皇の師であった元田へ内々に「ご所見をうかがいたい」と原案を持って訪問する。実は元田も私的な原案を作成していた。しかし元田は「一点の固執心こそ悪魔と存候」と自らの案を没にしてしまう。

元田は勅語は「万古不易の道」であり、勅語修正は「百世を待ちて疑わず」の気持ちで臨んだ。「萬世に伝えて愧じざる之聖論」を実現しなければならないというひたすら天皇と国を思って止まない二つの魂が共鳴して聖論を完成させたといえる。つまり儒学者で天皇の師であった元田が儒教道徳的な私案を捨てて、井上の立憲政体之主義に対する協調と、天皇はあらゆる宗門宗派の対立の上にあらねばならないとする天皇観により整理されている。

教育勅語は明治23年10月30日に渙発された。教育勅語によって秩序紊乱であった明治教育界は、行き過ぎた近代主義、科学偏向主義、理神主義陥ることなく、その後の日清日露戦争の勝利し日本の発展の基礎となるのであった。元田、井上はそれぞれ明治24年、明治28年にこの世を去ることになる。あたかも起草に命を削られた如くであった。