憲法改正 ―悪い憲法でも、自主制定していなければ意味が無い

にわかに憲法論議が活発になたことは喜ばしいが、国民がある程度の方向を共有していなければ憲法を策定することは難しい。このような論説を読むとその道程は長いと感じる。

どこ製でも、良い物は良く悪いものは悪い! 北村 隆司
私は憲法改正論者で、日本の自衛権は勿論、集団的自衛権も肯定する意見の持ち主ですが、一部の人が主張する様に、現行憲法が「米国製」だから改正すべしと言う、国粋主義的な改憲論にはとても賛成出来ません。
前段には異論はないが、現行憲法が「米国製」だから改正すべしと言う、国粋主義的な改憲論にはとても賛成出来ません、というくだりはいかがなものだろか。日本国憲法が英文で書かれたものを日本語訳して、2月13日~3月6日のわずか3週間あまり作成されたという事実はひろく知られている。この制定のプロセスは国立国会図書館の日本国憲法の誕生に詳しく出ている。
そもそも日本は、外国の諸制度や法律、文化、商品などを自由に取り入れ、それに日本人独特の改良を加えて多くの創造をして来た国です。その伝統からも、 「何処の国が作ろうと、良い物は良く、悪い物は悪い」と考えるのが自然な流れで、「憲法」は例外だと言うのは理屈に合いません。
以前のエントリー、国家 ―言葉がもたらす混乱で触れたが、国際法的に国家とは、
  1. ある程度以上確定された一定の領土を持つこと。
  2. 国民が存在すること。
  3. 統治機構を持ち実効的支配をしていること。
の3要件が必要である。さらに重要なことは民族自決の原則で、民族自決とは民族は自らを統治する機関を自らで決めることができるという大前提であるとした。自主独立とはそれがいいものであるあろうがなかろうが、自分でそれを決めているということだ。そして憲法とはその国家機関への国民からの命令書だということだ。究極外国人の首相でも構わないが、外国人が書いた憲法はダメだということ、これは会社における所有者と経営者の関係に似ている。
私が「憲法改正」を主張する理由は、内容と運用がお粗末過ぎて、「憲法」として機能していないからです。
現行憲法には、子々孫々に継承すべき「建国の意図」も「普遍的な理念」も有りません。日本国民が国家的危機に際して戻るべき「原点」も、従うべき「理念」も持てない事は誠に不幸です。
日本国憲法に建国の意図も普遍的な理念もないのが当たり前だ。日本の建国の意図は天壌無窮の神勅に示され、普遍的な理念は八紘為宇だ。大日本国憲法にははっきりと明記されていた。アメリカ人には日本の建国の意図も普遍的な理念もただの侵略思想だと誤解を受けたのだから、占領政策には必要ないことだ。だから日本国憲法が占領基本法と揶揄される所以だ。
建国の父に価する指導者もなく、国の理念も無しに憲法が制定された不幸な歴史を持つ我が国ですが、…
氏は日本国憲法制定のプロセスが不幸な歴史といっているのか、はたまた神武肇国から今日まで、建国の父も国の理念もないといっておられるのかわからないが、もし後者であれば聞き捨てならない。どこ製でも良い物は良いとしながら「建国の意図」も「普遍的な理念」もないと嘆く氏を私は同じに日本人として残念に思う。

安倍総理が96条改正に動き出したのは櫻井よしこ氏らの民間憲法臨調が以前から提言していた手法を取り入れたことは想像に難くない。保守でも竹田恒泰氏などは憲法学者としてハードルを下げることには明確に反対している。しかし国際情勢は緊迫し一刻の猶予も許されない状況だ。自衞隊を軍に格上げして、自衛権を明記し他国からの侵攻に備えなければならない。そのような緊急性を伴うからこそ改正手続きのハードルを下げ、たとえ安倍内閣が改正を実現できなくとも、手続きを緩和することによって後進に新憲法制定を委ねるということだろう。

氏は一方で日本国憲法の制定手続きがどうでもよいといい返す舌で改正を肯定している。さらには日本には建国の意図も父も国の理念もないと日本の肇国の歴史を否定しながら改正せよというのは穿った見方をすれば皇室否定して立憲君主国から共和国へ憲法を改正すべしという議論にも聞こえる。