余暇・娯楽協会 ―Recreation and Amusement Association
―余暇・娯楽協会
特殊慰安施設協会
1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった。東京都内では終戦3ヶ月以内に 25箇所の慰安所が開設されている。進駐軍の先遣部隊が厚木に到着したのは8月28日である。 RAA関連施設は、東京・横浜をはじめ、熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知県、広島県、静岡県、兵庫県、山形県、秋田県、岩手県など日本各地に設置されていった。 |
- ヨーロッパの戦場で、米軍によるレイプの被害者が14000人(ドイツ人女性 11040人)いたこと
- 沖縄戦では米軍上陸後、強姦が多発したこと。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。
- アメリカ軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生した
急告−特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニモ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費を支給ス
東京都京橋区銀座七ノ一 特殊慰安施設協会
キャバレー・カフェー・バー ダンサーヲ求ム 経験の有無ヲ問ハズ国家的事業ニ挺身セントスル大和撫子ノ奮起ヲ確ム最高収入
特殊慰安施設協会キャバレー部
このような広告が連日新聞に掲載され多い日には300名を超える女性が応募した。また東京都内で1600名、全国で4000名がRAA全体では5万名を超える女性が働いていたが、なんと6割を超える女性梅毒などに罹患し たという。戦争未亡人でもからり身分の高い女性も、少しでも日本女性の犠牲が少なくなるようにと、米軍将校の相手をしたと言う話を聞いたこともある。
以下は慰安所第一号になった大森 「小町園」に関係する人が残した手記だ。ねずさんのひとりごとから引用する。戦争に負けるということがどういふことなのか
大森海岸の「小町園」といえば、いまの中年の御紳士方で、ずいぶんなつかしがる方がいらっしゃるのではないでしょうか。
戦前は、今のように、温泉マーク(注:ラブホテルのこと)が都内のあちこちにありませんでしたので、そういう場合にたちいたりますと、京浜国道をひと走り、大森の砂風呂へ行こうなんて、みなさん、よく大森海岸までいらっしゃいました。
小町園も、そういう目的のために建てられた、海に面した宮殿のような大きい料亭でございました。
そういう戦前の、落ち着いた、奥ゆかしい小町園を知っている方に、終戦当時に小町園が描き出したあの、悪夢のような姿を、想像していただけるでしょうか。
現に、その光景を目にした私でさえ、今はウソのようで、これからお話することを誰も信じていただけないのではないかとおそれるのですが、でも、小町園の柱のひとつひとつ、壁の一面一面には、日本の娘の、貞操のしぶきが、流した血のあとが、しみついているはずなのです。
忘れもしません。
終戦の年の、昭和20年8月22日でした。
ご主人が銀座の方へお出かけになって、かえっていらっしゃると間もなく、私たちのいる女中部屋の方へ、「ここがRAAの第一施設になるらしい」という噂が伝わってきました。
女中部屋はそれを聞いて、ハチの巣をつついたような騒ぎになりました。
私には、そのRAAというのがわかりません。
聞いてみると、特殊施設協会とかいって、政府と警察と、それから私たち業者などが一緒になって作っているお役所で、お金は政府が一億円も出しているということでした。
でも私たちが驚いたのは、まだ見たこともないアメリカ兵がここへ入ってくる、ということでした。
そのRAAというのは、進駐軍を迎えてサービスをする施設だということですから。
「それじゃ、毛唐(けとう)の慰安所じゃないか」と、みんなびっくりしました。
その頃はまだ、パンパンという言葉もなく、アメリカ兵は「鬼畜米英」などと新聞に書かれ、私たちも素直にそれを信じて、アメリカ兵は人肉を食うなどと思っていたのですから、皆の不安も無理ありませんでした。
しかし、あとの騒ぎをいま振り返ってみますと、アメリカ兵は人肉こそ食べなかったけれど、それを同じことをした、と思わずにはいられません。
RAAの施設には、はじめ、日本橋の三越があてられる予定だったそうですが、さすがに三越側で承知しないので、大森海岸の料亭ということになり、悟空林や楽々が挺身隊の寮として荒らされているところから、うちに決まったという話でした。
その話が伝わった翌日には、なんと大工さんが50人もやってきて、昼も夜もぶっつづけで、こわれたところや、いたんだ箇所を直しはじめました。
さあ大変です。いよいよアメさんがくるのが本当だとわかると、女中の中にはひまをもらって、辞めていく人もあるし、毒薬を懐にして、いざとなったらこれを飲んで死んでやるといきまく者もいます。
私も家さえあれば、逃げて行きたいところですが、家は焼けて住むところさえありません。
それで、ええ、ままよ、と悪く度胸を据えてしまった訳ですが、その当時は、女中も、あとから来た慰安のひとたちも、そういう家がないから仕方がないという人が多かったのです。
ご 主人は、私たち20人ほどの女中を集めて、この小町園は、御国のために、日本の純潔な娘たちを守るために、米兵の慰安所として奉仕することになった。慰安 婦たちは、ちゃんと用意してあり、あなた方女中には手をつけさせないようにするから、安心して働いてくれるように、訓示をなさいましたが、私たちはパン ティを2枚履くやら、大騒ぎでした。
いよいよ明日の28日、厚木へ進駐軍の第一陣が乗り込むという、その前日になって、お店の前に二台のトラックがとまり、そこから若い女の人ばかり30人ばかりが降りて、中へぞろぞろと入ってきました。
リーダーみたいな男の人が、RAAの腕章をしているので、その女の人たちが、進駐軍の人身御供になる女だとすぐわかり、私たちは集まって、いたましそうに、その人たちをみやりました。
モンペをはいている人もいますし、防空服みたいなものをつけている人もいます。
ほとんど誰もお化粧をしていないので、色っぽさなど感じられませんが、しかし何と言っても若い年頃の人たちばかりですから、一種の甘い匂いのようなものがただよっていました。
この人たちは、みんな素人(しろうと)のひとでした。
のちに応援にきたひとは玄人(くろうと)の人もいましたが、はじめ小町園に来た人は、みんな素人の娘さんでした。
銀座の八丁目の角のところに、新日本の建設に挺身する女事務員の大看板を出して集めた人たちですから、進駐軍のサービスをするということはわかっていても、 そのサービスが肉体そのもののサービスだとは思わなかった人たちもいて、なかには、そのときまで生娘も何人かまじっていました。
前にちゃんとした官庁に勤めていたタイピスト、軍人の御嬢さん、まだ復員してこない軍人の奥さん、家を焼かれた徴用の女学生など、前歴はさまざまで、衣服、食糧、住宅など貸与の好条件に飛びついてきた人たちでした。
その30人の人たちは、もちろん、ちゃんと着物を与えられ(まちまちの着物でしたが)食物も与えられ、部屋ももらいました。
しかし、おぉ、その上に、何をもらわなくちゃならなかったか、その人たちは、翌日から知ったわけでした。
*
8月28日、厚木進駐、何というはやさなのでしょう。
もうその晩、新装をこらし、灯りをあかあかとつけたお店の前に、組み立ておもちゃみたいな自動車が停まり、そこから5人の兵隊が、何かお互いにがやがや英語でしゃべりながら、入ってきました。
それが記念すべき、はじめてのお客でした。
その人たちは、缶詰のビールを持ち、めいめい腰にピストルを下げていましたが、私たちが考えていたより、ずっと紳士的な態度で、
「ここに御嬢さんたちがいると聞いてきたが」といって、カードを通訳のひとに見せました。
それには、お店の地図が書いてあります。
いつの間にかRAAの方で、こんなカードを印刷したらしいのです。
主人はよろこんで、この5人の「口切り」のお客様をもてなそうとしました。
この人たちは、靴のまま上がろうとしたり、ふすまをドアと間違えて、押して外してしまったり、そんなヘマをやりましたが、上がると広間でおとなしく持参のビールを飲みはじめました。
広 間で特別に招いた大森芸者の手踊りを見せましたが、彼らはそんなものはさっぱり興味がないようで、しきりに、お嬢さんはどこにいるのだ、と聞き、料理をは こぶ私たちを抱きすくめようとしたり、なかには、いきなり部屋のすみで押し倒して裾に手をいれようとしたりする兵隊もありました。(和服がめずらしかった のでしょう)
それで私たちは、ご主人に言って、5人の兵隊に、慰安婦の部屋にひきとってもらいました。
なにしろ、素人の娘さんたちですから、はじめてみる外国兵の姿にふるえ、おののいて口もきけません。
それをまるで赤ん坊でも抱くように、ひざの上に抱き上げて、ほおずりしたり、毛だらけの大きな手で
「かわいい」とでも言っているのでしょう、何か言いながら、あちこち体を撫で回したりしているのを見て、私は急いで障子を閉めました。
廊下で聞いていると、あちこちの部屋で悲しそうな泣き声やら、わめき声やらがしました。
泣き声は女で、わめき声は男です。
おそらく何か月もの間、殺伐な戦場で、女の肌に一度も触れないできたのでしょう。
その、たまりにたまった思いを、一度にとげようとしているのでしょう。
その物音や、声を聞いていると、女の私でさえ、変な気持ちになりました。
もう何年もそういうことからは遠ざかっていた私ですから。
そして、ああ、やっぱり、日本は負けたのだと、日本の娘がアメリカの兵に犯されている物音を廊下で聞きながら、はじめてそのとき、敗戦の実感が胸にしみ、涙が出てきました。
5人のアメリカ兵は、その夜、12時頃までいて帰りました。
私はタバコを1箱、チップにもらいました。
部屋へ行ってみると、部屋中にアメリカ人の体の匂いが甘酸っぱく漂い、そのなかで、RAAの娘さんが顔をおおっていました。
素顔で体中汗でひかり、いかにも苦しそうに息をはいています。
聞いてみましたが、恥ずかしがって何も言いません。
しかし、皆の話を総合してみると、彼らは思ったよりずっと親切だったそうですが、何しろ体が大きいし、はげしいので、みんなくたくたにされてしまったようでした。
その5人の兵隊たちが満足したのも無理はありません。
彼らは幸せだったのです。
処女もその中にひとりいましたし、そうでないのも、ながい間、そううことから遠ざかっていた、おぼこな女ばかりでしたから。
だから、女の人も疲れてしまったのです。
*
しかし、そんなのんきなのは、この晩だけでした。
この5人は、嵐の前触れのようなものだったのです。
翌日は、ひるまから、彼らはウワサを聞いて続々とやってきました。
大勢になれば、もう遠慮なんかしていません。
土足でずかずか上り込み、用のない部屋に入り込んだり、女中や事務員まで追い回したりします。
10日ほど経ったとき、その騒ぎはどうしようもなくなりました。
ほかにも、ポツポツそういう施設ができかかっていたのでしょうが、私たちからみたら、なんだか東京中の進駐軍が、みんな私たちのろころへやってくる気がしました。
ジープが前の広場に、十台も二十台もとまっていて、あとからあとから、兵隊たちはやってきました。
は じめてやってきた30人の女のうち、ふたりは、最初の晩にどこかへ逃げて行って、残った娘さんたちが、お客を迎えたのですけど、部屋が足りないので、まる で体格検査上みたいに広間をびょうぶで仕切って、そこに床を敷いて待たし、一部屋になっているところも、兵隊たちが障子をこわしてしまったので、開けっ放 しです。
女たちはそれを嫌がりましたが、兵隊たちの方は平気で、かえって面白がって口笛を吹いたり、声をかけたりして楽しんでいました。
ひとりの男が中にはいると、あとの列が、ひとつづつ前へ進みます。
まるで配給の順番でも待っているようです。
その列が廊下にあふれ、玄関に延び、ときには表の通りまで続くときがありました。
私たちも、ぶっ倒れそうになりながら、その兵隊たちの間をかけまわって、用をたしました。
気を張ってないと、待っている気なぐさみに、どんなことをされるかわかりません。
接吻をされたり、お乳に手を入れられたり、私もしまいには神経が太くなってしまって、接吻なぞ、何度もされました。
なにしろ、右を向いても左を向いても、そんな風景ばかりなのですから。
ひどい目にあったのは、募集で集まってきた女の人でしょう。
みんな素人の娘さんたちなのです。
はじめての日に処女をやぶられて、一晩にひとりの男の相手をするだけでも、心が潰れるほどのことだったでしょうに、毎日、昼となく夜となく、一日に最低15人からの、しかも戦場からきた男の人を相手にしなくてはならないのです。
素人の女ですから、要領というものを知りません。
はげしく扱われれば、正直に女の哀しさを見せてしまいます。
それではたまったものではありません。
たちまち別人のようになって、食事もろくにとれず、腰の抜けた病人のようになってしまう人が多かったのです。
どうしてこんなアシュラのようなところから、みんな逃げ出さなかったのか不思議に思うのですが、逃げようにも逃げる気力さえなくなっていたのかもしれません。
どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、女たちの嗚咽(おえつ)が聞こえてきました。
それを聞いていると、日本の女が、戦勝国の兵隊の蹂躙にまかせられているという気がしみじみとしました。
それは、それから何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの縮図だったのです。
見本だったのです。
私たち女中のなかからも犠牲者が出ました。
よっちゃんという19の子は、布団部屋にはいったところを、数人の兵隊に見つけられ、なかでイヤがるのを無理に輪姦されて、
「お姉さん、あたし・・・」
と私に泣きついてきました。
キズ口を洗ってやりましたが、裂傷を負っていました。
「わたし、好きな人がいたの。こんなことになるんだったら、復讐してやるわ、兵隊たちに!」
そういって、翌日から慰安婦の方へまわって、お客をとるようになりました。
しかしこの子は、もともとそういうことが好きだったらしく、それに外人の体がめずからしく良かったのでしょう。
復讐どころではなく、何人のお客を迎えても、鼻歌交じりで、きゃっきゃっといって、兵隊たちと騒ぎまわっていました。
一日に60人のお客をとったという女が表れたのも、その頃の話です。
そのときは、ペーディだったのです。
朝から横になったきりで、食事も寝ながらとるという調子だったそうです。
でもその人は、もうそれっきり立てなくなって、病院に送られましたが、すぐ死にました。
精根を使い果たしたのだと思います。
*
そんな毎日が続いても、お客はあとから、あとから増えるばかり。
収拾のつなかい混乱におちいってしまいました。
女たちは、もちろん短期の消耗品みたいなものでしたけど、それでも使い物にならなくなれば困ります。
ご主人は、銀座のRAAに応援を求めました。
RAAの方では、はじめの失敗に懲りて、今度は新宿や吉原から集めた玄人の女を、補充に30人ほどこっちへ送り込んできました。
そしてRAAのほうに応募してくる素人の娘さんは、いったん吉原などへ送り、そこで泣いたりわめいたりしないように実地訓練をするという方法をとったようです。
こんど来た人たちは、何といっても、そういうことには慣れている人たちですから、一晩に10人や20人のお客をとるのは平気です。
「それでもねぇ、やっぱりなんだかヘンよ。体が違うでしょ? それに言葉は通じないし、おまけに向こうでは、女のご機嫌をとろうと思って、いろんなことをしてくるでしょ? こっちはなまじっか、そんなことされないで、早く切り上げてくれた方がいいと思うんだけど・・」
などと、くわえタバコで、私たちに、そんなことを打ち明ける人もいるほど、なれていました。
この人たちが来てからは、だいぶうまくいくようになり、兵隊同士のケンカや、女中の犠牲者たちも少なくなりました。
はじめにきた30人の女の人は、その2~3か月の間に、病気になったり、気が違ったりして、半分ほどになっていました。
しかし、その半分の人も、現在ではきっとひとりも、この世に残っていないと思います。
それほどひどかったのです。
まったく消耗品という言葉がぴったりとあてはまる人たちでした。
とても人間だったらできないだろうと思われることを、若い、何も知らない娘さんたちがやったのです。
そしてボロ布のようになって死んでいったのです。
そうこうしているうちに、方々に同じ施設ができました。
お店の近くにも、やなぎ、楽々、悟空林と続いて開業しましたので、うちへ入るお客も、自然少なくなり、一時の地獄のような騒ぎもおさまりました。
でも、今度は、世の中全体に、そういう風潮がひろがっていくのが、私たちにもわかりました。
若いお嬢さん風の女の人が、玄関にはいってきて、主人に「働かせてください」と頼むことがありました。
理由を聞いてみると、路でアメリカ兵に強姦されて、家に帰れないから、というのでした。
そうして自分から、アメリカ兵に媚を売る女になっていく人も、何人かありました。
今思うと、こうしてあの頃、東京中にパンパンなるものが生まれつつあったのですね。
私はそれから何か月か経って、とうとうアメリカ兵のひとりに犯され、お店をやめましたけれど、あの頃の小町園のことを思い出すと、悪夢のように思われます。
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