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アジアの精神と日本の役割 -講師朴鐡柱先生

朴鉄柱大人を偲ぶ」(平成3年発行)より093p-107p

私と日本

本日の皆様との出会いは、私、神様のお導きであると固く信じております。

私、現在不治の肺ガンに冒されておりまして、余命いくばくもありませんが、死ぬ前に、是非書き遺しておきたいと思う 一念で、「私と日本」という題で目下昼夜を分たず執筆致しておりますので、一応自己紹介も兼ねまして私のことを申し 述べさせて頂きたいと存じます。

私の生まれは釜山の東?という所でございますが、そこは非常に封建的でしかも反日思想が強い土地柄でありました。私の家は両班(ヤンパン)と申しまして大地主の家ですから、特に反日的雰囲気が強かったのです。

それで私、小さい時、日本で云えば寺子屋のような所に漢字の勉強に通わされておりましたけれど、偶々小学校から日本のおまわりさんが来られて、正式に小学校に入れなさいと両親に説得してくれたんです。しかし両親は聴いてくれませんでした。で、私はどうしても行きたくて、両親に反抗してハンガー闘争と申しましょうか。三日三晩納屋に閉じ籠り まして、やっとのことで許されて小学校に行くことが出来たんです。

どうしてこんなことを申し上げるかと言いますと、実はこれが後に私が日本に目を向けていく契機になったからなんです。

つまりこういうことがあったんですね。小学校二年の時、満州事変が起りまして、日本の兵隊さん達が釜山に上陸して大陸へ向かうんです。私、その兵隊さん達のお見送りに毎朝行っていたんです。勿論両親に見つかったら大変なんですが。そうすると、或る日一人の兵隊さんが側に来て、「君は一人で来たのか」と聴くので、「はい、そうです」というと、頭を撫でてくれましてね。もう兵隊さんに撫でてもらったかと思うと、うれしくて感極まったんですよ。

それで、その兵隊さんと長くおつきあいさしてもらうため文通しようということになって住所を教えたら、その兵隊さんから軍事ハガキを頂いたんです。その方は上野という上等兵でした。満州事変が済んで帰るので釜山で又会いましょうというんです。それで、今でも忘れませんが、駅前に鳴戸旅館というのがありまして、そこに一泊してその上等兵さんのいろんな身の上話を聴いたんです。

その方は、國學院大学の皇典講究所を出た方でございまして、「君は日本へ行ってもっと勉強しなさい」と言って下さったんですね。その方とはその後もずっと文通致しましたが、後に惜しくもフィリピンの戦線で亡くなられました。しかも私が本当の思想の良導と愛情を受けた恩師でありまして、その方が神主さんだったので、私もそれなら同じ様に神主さんになろうと決意したんです。勿論家族は大反対で、筆舌に尽し難いものがありましたが、私も少々我が強く諦めなかったんです。

それから中学の時には、偶々こういうことがあったんです。当時は韓国併合時代でありますが、大陸では、戦争が始まっており、物資の配給の割当などがあったんですね。ところが日本人には砂糖を配給するが、韓国人にはしないといった不公平がいろいろありまして、その時私は総督府に乗り込んで「どうしてそのような差別待遇をするのか、これは天皇さまの一視同仁の大御心に反するじゃないか、お前たちは幕府的存在だ」と言ってやったんですが、そのために初めて留置場に入れられてしまいました。

そんなことがありまして、私のどうしても日本へ行って日本の勉強がしたいという気持は益々強くなり、無理に無理して到頭國學院大学へ行って皇典講究所に学ぶことが出来た次第です。

ところがそれからが又一大難関でありました。つまり当時創氏改名と云いまして日本の氏名に変えないと対等の扱いをしてもらえないということだったんですね。私の家は絶対反対でしたが、私は自決も辞さない覚悟で血判を押して両親に訴えて闘い抜いたため、私の一家全員創氏改名致しました。

そういうわけで、私の一生というのはまさしく日本を置いては何も考えられない状況で勉強させて頂いたわけです。

そういうことでしたので、終戦になって帰韓しました時は、当時の李承晩から迫害を受けまして、直ちに民族反逆者裁判にかけられて約三ケ月投獄されましたし、その後本を書いても出せないという有様で、いろんな苦労を致しました。

まあ、しかし今日こうして皆様の招待を受けまして私も神主でありましたから、なつかしさ限りなく、しかも昔奉仕を致しておりました住吉神社で玉串拝礼をさせて頂きました時は、関節にガンが転移しておりまして決して座ることが出来なかったのに、不思議にもちゃんと正座が出来まして、「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌の真情そのままに感涙にむせんだ次第でした。

私自身のことを長々と申し上げて誠に恐縮ですが、一応こういうことを申し上げておかないと、私の立場やお話の観点がよく御理解頂けないかと存じまして御無礼を致した次第です。

日韓交流の淵源

さて日韓の問題と申しますか、日本の歴史を通観致しますと、文禄・慶長の役、日清戦争、日露戦争など国運を賭した歴史には常に韓国問題が表裏一体となって続いて来ていることが分ります。ですから、アジアの問題を考えるためにはどうしても日韓の歴史を抜きには出来ないということです。そこで日韓の関係を出発点として若干申し述べさせて頂きたいと存じます。

かつて徳富蘇峰さんが、「韓国問題の発端」という本を出したんですが、それは第一に日韓問題は地理的条件であるということを申されているんです。つまり太古の時代日本と韓国とは陸続きで一つだったという想定で論じているんです。後に日本海の陥没とかがあって二つになったけれど、その前は一つの国であって、日本の上古史というものは韓国を除いては成り立たないとまで言っております。

実は私も学生時代、全国を歩いて廻って韓国の古代宗教をいろいろ調べたことがございますが、日本の神道と全く同じ形態の宗教が韓国にもあったんです。今でも田舎に行くと残っています。韓国の部落に行きますと、部落ごとに何百年も経った大きな木がございまして、それに注連縄を張って村の長老が五穀豊穣の祈りや感謝祭をしたりしまして全く日本と同じなんです。

これは儒仏伝来以前からの民俗ですから、私は研究しながら日韓の古代信仰は一つだったんだという信念を持たざるを得ませんでした。これは一つ皆様も念頭に置いて頂いて充分考えて頂きたいと思います。

先日下関の青年神職の方々が来られまして金海市の駕洛で雅楽の奉納をされましたが、その駕洛というのは日本の「古事記」にも出てます伽羅のことです。この国が洛東江沿岸にありました最初の農耕民族なんです。日本初弥生時代の頃です。

それに対し北方の民族は騎馬民族で獰猛ですから、いつも痛めつけられていましたので日本の支援がほしかったわけです。それで彼我の交流が深まったんですが、そういう跡が残っています。例えば墳墓ですが、ドルメンと云いまして、人を埋めて一枚岩を乗せるわけですね。これが九州にもありますし、南朝鮮にもあるんです。これから見ましても日本と南鮮は一つの文化圏にあったことが分かります。

これは今日日韓の問題を考える上でも重要な出発点であり、基礎であると思います。これを無視すると相互の理解がむつかしくなります。

それが飛鳥、奈良時代になりますと、日本の政策が中国へ変るわけですね。随唐の時代です。しかしその間にあっても日韓の交流はずっと続いているんです。文禄・慶長の役の直後は少し絶えますが、あとは江戸幕府の時代も対馬の宗氏が年間二十艘の船で、いつも釜山と交流していました。

征韓論の真相

ところが、明治維新後は彼我の立場に大きな齟齬を生ずることになりました。そのために、例えば征韓論といった問題が生じます。しかし私は却って木戸さんや板垣さんの方が強硬派であって、西郷さんは絶対に征韓を意図されてはいなかったと思っています。西郷さんは征韓問題で初の閣議があった時、板垣さんが軍艦を率いて行って聴かざれば戦端を開くべしと主張したのに対しこう言っているんです。「日本と韓国は兄弟の関係であるから、ケンカをしてはいけない。自分をよこしてくれ。自分は寸鉄を帯びずに行って韓国の人と膝を交えて話せば分る。それでもし自分が殺されることがあったらその時は自分の死体を乗り越えてどういう風にしても構わん」と。信を相手の腹中に置いて話すならば必ず分るというのが西郷さんの論ですが、それはついに通らず、西南戦争まで行ってしまったんですね。

在野志士の尽力

この時期、明治新政府は富国強兵、殖産興業といった目標を立てて西洋一辺倒だったから韓国問題には余り真剣でなかったんです。ところが玄洋社に代表される在野の勢力の方を調べてみますと極めて真剣だったんです。例えば福沢諭吉という人も在野の人だったんですが、この人の努力で韓国に初めて「漢城旬報」という新聞社をつくったんです。当時の韓国にはそこまでの民度も財力もなかったので、諭吉は私財を投じ井上角五郎という門下生を派遣して、しかも清国の勢力が入って韓国を属国化していたそのさ中にこの快挙を成し遂げたんです。これは歴史的なことで、当時の
日韓交流のいい仕事の一例です。

又東学党の乱と申しまして、当時政府や両班階級による搾取がひどくて農村が疲弊したのを慨し、西学に対する東学を奉ずる全?準が率いる農民が全羅北道で蜂起したんですが、これに黒龍会の壮士達が、天佑?という義軍を組織しまして、ロバに武器を積んで釜山に上陸し、はるばる山を越えて支援に出かけたんですね。

このように在野有志の人達はいつも命がけで韓国問題に取り組んできたんです。ところが韓国政府は清国の軍隊を多数導入して徹底的に懲罰したんです。その時日本政府の方は全然援助もしなければ、ソッポ向いてたんですね。だから当然戦いは敗れましたけれど、おかげで清国の勢力が韓国内に強く入って来たため、日清間が険悪となりついに日清戦争になったわけですね。

韓国併合の経緯

しかし日本が勝ちまして、韓国から清の勢力は駆逐されたわけですが、今度はロシアが入って来て不凍港を求めて馬山に軍港を築いたんです。日本には大変な脅威になります。その時、時の宰相金弘集は、日本の援助で近代化しなければならんと考えていたんですが、国王はロシアを頼んでロシア大使館に入ってしまったんです。そして一年以上に亙ってその中から政府を指揮したんです。しかもロシア公使が金弘集は悪い奴だから殺せと言うと、その命を受けて彼を目の前で殺害したわけです。

私は既にその時に李氏朝鮮は自ら独立権を放棄したと思っているんです。

そういう状況で益々ロシアの勢力が侵入して来ました。そうすると朝鮮もロシアにやられる。日本は一体どうなるかということで、日露戦争が起きたんですね。まさに国運を賭した大変な戦争だったんですが、まあ幸い日本が勝ちました……。そういう勢いというのがありましてね。

一方の韓国は今も申しましたように、国王がロシアの公使館に亡命してロシア公使の采配を受けて宰相を殺すという悲惨なことで、およそ一国としての自主権もなく、その能力もなかったわけですから、東亜の安定のために孤軍奮闘し多くの同胞の血を流した日本が、それに懲りて日韓の合邦に持って行ったのも責められぬ所があると思うんです。

帰化人の優遇

私、長い日韓関係史を勉強してみまして、日韓古代史がひと続きであるという感を深くしました。これは地理的に、例えば慶尚南道から舟に乗ったらじっとしていても裏日本に着いてしまうという条件ですから、恐らく北九州、山口県、島根県などは殆ど韓国の人が、政変の多い国ですから亡命して来たと思うんです。

政変で亡命して来た人は政治担当していた人ですから、皆文化人なんです。そして日本の方でもこうした帰化人を優遇しているわけです。

鹿児島に行きますと、シンさんという陶工の家柄で十九代の人がおります。私会って話したことがあるんですが、文禄・慶長の役で島津藩の軍隊がやって来た時に、彼の先祖は司令官として町の前門を守っており、後門は明軍が守っていた。ところが前門は落ちなかったけれど、明軍が逃げたために後門から落ちてとうとう捕虜になってしまったそうです。しかしその人は大変博識な人格者だったので島津のさむらい達も尊敬して解き放してあげたんですが、今度は韓国政府からも追い払われてしまって家族全部を引き連れて捕虜になって日本に帰化したそうです。

鹿児島では触れを出してその一族に住居と、陶工としてやっていけるための良質の土の産地とを世話してやって対等の身分を与えたんです。その方が五年前に韓国にきて高麗大学で講演したんです。

日本は決して侵略的でも暴力的でもありません。文禄・慶長の役も日本がめざしたのほ明国であって、韓国にはただ道を開けてくれということだったんですが、大陸続きの関係上韓国は明に従わざるを得なかったので戦争になったんです。

日本に悪意なし

今いちいち申し上げる暇はありませんが、日本は善意はあっても悪意というものはなかったと云える。さっきも申しましたように日韓併合だって悪意じゃない。これも放っておけば、日清戦争でやっと独立権を回復してやったのに、又ロシアにやられてしまう、これじゃいつまで経ってもだめだ、それじゃ自分たちがやってやらなきゃだめだということなんで、私は善意に解釈すべきで、決して悪いことじゃないと思います。

私一つだけ強調したいのは、昨今の教科書問題とかで日本の侵略だとか何かと言っていますが、これは欧米諸国のようなものではありません。欧米のアジア侵略こそは筆舌に尽し難いものがあったわけです。皆さんもよくご存知だからいちいち申しませんが、ジャワ、インド、ボルネオ、すべて席巻して独立国と云えるのはシャムと日本しかなかった。中国だってアヘン戦争でズタズタにやられている。事実はこういうことなんです。

歴史教育の欠陥を匡せ

ただ問題なのは今日の日本と韓国はどうしたらいいかということです。これは大変な問題です。

先づ日本のことを申してすみませんが、日本は歴史教育が全く欠けております。なぜ歴史を教えないかというと、GHQの政策をそのまま受け継いでいるからです。これじゃいけない。教科書にその国の価値観持つのは当然です。するとね、韓国騒ぎ、中国騒ぎするから取りやめる、これじゃいつまで経っても本当の歴史は成り立たない。このことを皆様真剣に考えて頂きたい。

と申しますのは、何度も申すようですが、日本は決して悪意でやって来たんじゃないということです。欧米の侵略戦争はもっとひどかった。それに比べれば何ということはありません。

まあ、大東亜共栄圏ということばはあまり好きじゃなかったんですけれど、要は弱者を保護し解放するということが日本本来の思想だったんです。これは極めて正しいことです。そこが歴史をまともに教えないから、皆様がもう卑屈になったという経緯がないでもありません。ですから、そこの所を皆様方が若い人の教育に熱心に当って頂きたいということをお願いする次第です。

経済のみでは真の友好にはならぬ

それから韓国も然りですが、教科書問題を始めいろんな問題で日本をたたくのは、これ援助してくれとか、お金をくれとか、借款くれとか、経済的魂胆が必ずあるわけですよ。だから、煩わしい、うるさいからやってしまえということではアジア問題、日韓問題はいつまで経っても同じなんです。そこの所をよく考えて、日本の政治家は勿論ですが、皆さんの周辺からも正しい歴史教育が出来るようにして頂きたいと思うんです。

本当のアジア問題の解決には、自主性が第一。自主的な教育、自主的な憲法に基ずくことです。相手が聴かなければ説得すること、相手がすねていたら引張って来てでもやるという気概を持たないとダメだと思います。煩わしいから金やってしまえばそれまでだというんでは、いつまで経っても解決しないと思うんです。

韓国でも中国でも過去の歴史にこだわって好きなこと云わせていたらキリがないですよ。よく南京事件のことを持ち出しますが、その前の済南事件などは日本の人がたくさんやられているんですから。

私、大変僭越なことを申し上げましたが、これがこれからの日本の進み方の基本になると思います。これが出来ない限り、お金の援助をいくらやってもキリがないんです。

大アジア主義と日・韓・中の志士
戦前の日本の国家的行動を「侵略」の一語で片づけるような歴史観は、本当の事実を全く無視しています。

中国革命の父孫文は当初滅清興漢をスローガンとして戦っており、玄洋社の頭山先生など日本の民間志士とのつながりが深かったんですね。偶々日露戦争が起きて日本海海戦で日本が大勝した時、孫文はロンドンに亡命していましてイギリスの高官と話をしたんですが、日英同盟の最中というのにその某高官は、白人が有色人種に負けたのが悲しいというんです。というのは、イギリスとしてはロシアの南進政策を阻止する防波堤とするため日本と利害関係で結ばれていたに過ぎないのです。しかし最早日本の防波堤としての役は終ったということで、白人が負けたことが悲しいという
んですね。

そこで孫文は一念発起しまして日本と提携しなくちゃいけないというので帰国して来るんです。そして中東アジアの港々に船が泊まると、原地人達からあんたは日本人かと云われ、理由を聴くと有色人種が白人に勝ったのが嬉しいと云って喜んでいるんです。それで日本に来た時、大アジア主義という演税をしたんです。そしてこの時、満洲は日本に与えてもよいと云っているんですね。というのは満洲は清国を興した女真族の故郷であって、孫文としては清を中国本土から追い払って漢民族の国を建てようとしているわけですから、満洲を中国の一部とは考えておらず、寧ろ日本が投
資してアジア防衛の根拠地にしてもらった方がよいと考えたわけです。

だからこの方向に沿って日本の国家権力も動かされてきたわけで、日本は悪いことをしてないんですよ。少なくとも政府はどうあれ、在野勢力というのは本当にアジア諸民族の味方になって連携を保ってやって来ている。先程も云ったように黒龍会が東学党を支援したり、玄洋社が辛亥革命やフィリピン独立運動を支援したり……。

そうしてみると、明治維新のパワーというのは、政権の座に就いた側になくて、在野の人達に大きな維新精神が受け継がれてアジア問題を常に真正面から捉えて来てたんですね。

私も頭山先生に戦前一度だけお会いしましたが、君は金玉均タイプだと云われました。金玉均というのは、御存知だとおもいますが、福沢先生の門下でもありまして李氏朝鮮末期独立党を作って親日政府を構成し日本と協力して韓国を立ち直らせて東亜の安定を保ちたいと主張したんです。それを時の日本政府は相手にしなかったんですが、頭山先生らは支援し続けたわけです。これは非常に価値あることだと思います。こうした在野の努力を除いて近代日本の歴史もあり得ないと思います。

だって当時日本政府の高官は鹿鳴館に象徴されるように欧米模倣になり切って何もなかった状態です。伊藤(博文)さんなんかも、料亭に行くと、頭山さんが来てないか、と聴いて来ていない、というと入ったというんです。来てるというと逃げちゃうんですよ。それくらい時の首相も在野勢力を恐れていた。後の首相になった犬養さんなどもその頃は玄洋社の志士だったんです。

今日でも皆さん達のような民間の人こそが真の日本の歴史に立って尽力して頂ければいつか必ずアジア諸国との深い理解と友好が成り立つんじゃないかと思います。

民間レベルの文化交流を促進すべし

政府に任せたらダメなんです。私のよく知っている立派な人でも政府と結託すると必ず悪く染まるんですよ。

私自身も朴正熙の時代から共和党に来てくれと云われたことがあるんですが、私は日本文化のこと以外は政治も知らないし、但し「古事記」なら講義しましょうと云って断りました。それが却って向うの心証を害してしまいまして弾圧されたんです。「日韓間題の将来」という本も書いたんですが、反共法に引っかかって刑務所に入ったんですよ。こういうように政治家に任せると目先に追われてダメなんです。在野の方が結束して勉強し、修行教化していけばやがて実現します。これが基本だと思います。

但し日本はゆくゆくは憲法改正しなくてはいけませんね。私どもの情報では韓国政府もおいおいよくなりつつあるらしい。というのは韓国野党に私友人がいるんですが、結構立派な人がいますので、次期政権は野党に帰ってくると思うんです。すると私も遅ればせながら命ある限り協力してやっていきたいと思います。

今まではよくないことばかりでしたが、日韓の文化交流の根は非常に深いんですから、これを民間の力で充分掘り下げていく研究機関を作っていけば必ず道が開けると思います。

私の悲願

私、冒頭にも申しましたように「私と日本」という本を書いておりまして、個人的内容かと思うかも知れませんが、これを書き通しておきたいと思うのは、韓国の若い人の将来のためなんです。私が先駆者とは申しませんが、少なからずそうした気概で書いていますから、日本文化の理解に一生捧げ尽くしたいということは誰か分かってくれるんじゃないかと思うんです。

貴重な時間を私ごとき者のお話をお聴き頂き、有り難く存じました。今後とも御指導賜り相携えて仕事をしていきたいと思います。

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日本国憲法の研究 ―合衆国憲法との比較 前文

これから日本国の新憲法草案を提案しよう。どうしてそう思ったかは単純だ、今の日本国憲法は近代憲法の要件を満たしていないと思われるからだ。近代における国家は主権者である国民の国家形成への強い意志によって成り立っているとする。―するとしたのはもっと奥深い部分では違うと考えているが、近代に対応するためにそう仮定することにしよう。

近代思想において国家は、たとえ国民がひとりでも、国民意志があれば形成することができるとされる。しかしそれは利己的な個人意志ではない。五箇条の御誓文で公論と示された、意志を国民主権では民意というのであって、それがなければ近代国家は存在しないのである。さらにその意志は個々人の中にある不条理で熱い志であり、それを顕現しあるいは不当な隷属の強要から擁護されなければならないと考えている。

そして近代における憲法はその国家を統治する権力を制限するために制定するものであり、国民から政治権力への手紙であり、もっと強く表現すれば命令書として機能するのもである。よって国民が必ずしも従うべきものではないという性質のものである。
統治体というのは国際的には近代国民国家が国際関係を維持するため、またはその関係が破綻した場合に起きる紛争を解決したり、戦争を遂行し条約を締結するための代表府である。同時に国内においては共同体秩序を維持発展させるために制度や法律を制定する立法府、制定された法律をもとにそれを執行する行政府、そして行政が正しい手続きで行われているかを監視したりあるいは手続きの瑕疵を判断する裁判所などの組織のことである。

しかしこれらの組織は主権者である国民の自由を拘束したり法律を不当に行使したりする可能性があるので主権者は組織に対し、してはいけないことと、積極的にしなければならないことを文書によって命令する、それが憲法の本質なのである。そういう視点をもって世界最初の憲法らしい憲法であるアメリカ合衆国憲法と戦後アメリカの占領下制定された日本国憲法を比較してみよう。

アメリカ合衆国憲法(日本語訳)
前文
われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。The Constitution o…

国際関係論で論じられる理想主義

リベラリズムほど解釈が多様にある言葉はないと思う。日本語では自由主義と訳される場合が多いのだが、昨今では自由主義とリベラリズムは対立する政治姿勢ともいえる。よって自由主義をリバタリアニズムと呼ぶのが一般的になりつつある。本稿の場合はリベラリズムを社会自由主義的な用法、ようするに国際関係論で論じられる理想主義として論じることにする。

20世紀の戦争 20世紀は戦争の世紀と呼ばれるように産業革命による技術革新が戦争を巨大化、無慈悲化させた。世界は巨大化・無慈悲化する戦争に対して、一定の規則を締結したが、その後に勃発した第一次世界大戦は大規模かつ無慈悲な消耗戦によりヨーロッパ社会に大きな衝撃を残した。

第一次世界大戦の塹壕戦や化学兵器の使用は、ただ敵を消耗させるための戦略で、それまでの戦争とは様相が大きく変化した。戦争は国家が軍に命令して、軍が名誉をかけて行う営みから、国家国民全体で行う営み全体戦争つまり総力戦へと変容した。

パリ不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)は大戦のような悲惨な戦闘を二度と繰り返さないために交戦国、非交戦国も含めて63カ国が署名した。目的は戦争の違法化、特に侵攻戦争の違法化を目指したが、最終的には侵攻戦争を非難するにとどまった。


貧困が戦争を起こす もし社会が現状で固定されるとしたら、現在比較的幸福な人はいいが、もし不幸な人はどうだろうか。それはその人の希望を奪い去ることになる。国家同士の戦争もある一面では現状に満足できない国家と、それを阻止しようとする国家の営みといえる。

第一次大戦後ヨーロッパの比較的裕福な人々の間で戦争が二度と起こらないように、家族友人の死、あるいは戦争による破産などの不幸をなくすには、どうしたら良いか考えられたのは自然なことだ。そして彼らは結論した。「貧困が戦争を起こす」。

大戦中ロシアでは革命が起こりソ連邦が誕生する。国民(ソ連に国民がいたかは定かでないが)に貧困のない平等な生活を提供する統治体の出現に、ヨーロッパのエシュタブリッシュメントは期待と不安の眼差しを向ける。
リベラリズムの誕生 フランス革命の惨劇を経験しているヨーロッパの裕福な人達は、現状を維持しながら戦争を防止する政治体制の確立を急いだ。そのような背景でリベラリズム理論が誕生することになる。その理論は金持ちはそのまま、貧乏人はもう少しお金持ちにすることだ。

日本国憲法の研究 ―合衆国憲法との比較 第1章

近代憲法は、主権者である国民の意志として、組織される政府に対する命令書なので、前文は、その意志を表現したものがふさわしい。そしてその目的を明確にする必要がある。さらにその目的のために、憲法を制定するわけなので、そういうことを頭に入れたうえで、再び前文を読むと、合衆国憲法は、

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。
目的意志がシンプルかつ明確に表現されている。これと比較して、日本国憲法における国民意志もしくは達成したい目的は、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。に色濃く現れ、

これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
が次にくる。なぜわざわざ一切の憲法と法令と詔勅と断る必要があるのだろうか。ここにこの憲法を制定した意志があるのではないだろうか。そして最後には、

国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

目的を達成することを、宣言命令するのではなく誓ふ。さらに誓ふ対象も明記されていない。我々日本国民は、誰に対して目標を達成することを誓ふのだろうか。 これに答えを出せる憲法学者や国会議員が、我が国にはどれほどいるのだろうか。国民はそれを疑問とも考えていないのだろか。

第 1 章はその意志を具体化する、そして目的を達成するための第一歩ということだ。最重要なことを最初に申し述べているのである。アメリカ合衆国にとって最重要なことは法の支配、法による秩序であり、日本国では天皇―スメラミコトによる秩序―これをしらすという―であるということだ。大日本国憲法では、

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

と統治の根拠となる天皇が過去、現在、未来に渡つて、日本国と日本民族の秩序の源であることを示している。この場合の統治とは伊藤博文が解説するように、しらすであり現実的な権力、うしはくと厳密に分けなければならないのである。

合衆国憲法は合衆国の秩序は法によって護られるゆえ、第 1 章では立法府についての規定が列記される。一方、日本国憲法では天皇についての条項が…

年次改革要望書

サイトで偶然みつけた原文の、いわゆる「年次改革要望書」だが、TPPと比較してみても面白い。アメリカの戦略なのか執念なのか、はたまた信仰なのか、1994年からもう20年くらいやってる市場開放交渉だ。我国政府も辛抱強くそれに対応していることがわかる。

TPPとはなにか ―GATT・WTO体制から考えるTPP

TPPというのはWTOが認めるGATT体制の例外で、自由貿易協定や関税同盟などの地域貿易協定のことだ。そのことについての議論が国会の場でもあまりされていないように思う。おがた林太郎元衆議院議員のブログそもそもFTAとはというエントリーがあり、自由貿易協定の根拠はガット24条だということを知らない議員が多いと指摘している。

経済産業省の説明では自由貿易協定(FTA: Free Trade Agreement)と関税同盟(Customs Union)を総称して地域貿易協定としている(RTA: Regional Trade Agreement)が、これらはGATT・WTO体制の例外として認められている協定で、それを規定しているのがガット24条という事になる。経済産業省のHPに関税及び貿易に関する一般協定、GATTの翻訳が掲載されている。
この協定の適用上、
(a) 関税同盟とは、次のことのために単一の関税地域をもつて二以上の関税地域に替えるものをいう。
(i) 関税その他の制限的通商規則(第十一条、第十二条、第十三条、第十四条、第十五条及び第二十 条の規定に基いて認められるもので必要とされるものを除く。)を同盟の構成地域間の実質上のすべての貿易について、又は少くともそれらの地域の原産の産品 の実質上のすべての貿易について、廃止すること。
(ii) 9の規定に従うことを条件として、同盟の各構成国が、実質的に同一の関税その他の通商規則をその同盟に含まれない地域の貿易に適用すること。
(b) 自由貿易地域とは、関税その他の制限的通商規則(第十一条、第十二条、第十三条、第十四条、第十五条 及び第二十条の規定に基いて認められるもので必要とされるものを除く。)がその構成地域の原産の産品の構成地域間における実質上のすべての貿易について廃 止されている二以上の関税地域の集団をいう。 TPPも含む地域貿易協定の根拠は24条にある。つまりTPPにも最恵国待遇が適用されるということだ。一応経産省のHPから最恵国待遇のPDFにリンクを張る。

WTOはその前進であるGATT(General Agreement on Tariffs and Trade) 関税及び貿易に関する一般協定が機関に昇格したものだが、実は国際通貨基金、世界銀行と並びブレトン・ウッズ体制の枠組みとして発足する…

TPPを締結できるか ―日本国憲法から考える

日本国憲法はその制定過程に疑義があるが、陛下の御名御璽のもと、施行されたのであるから、現在の政府はそれを遵守しなければいけないことは当然だ。しかし今回TPPについての議論を憲法の論点から整理をしながら思うことは、憲法を国会議員が全く意識していないし、ましてや遵守など微塵もされていないことに愕然とする。条文は、
第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 つまり、政府関係者は尊重擁護する義務があるのだが、自らの権限範囲つまり既得権擁護の議論にしか終始していないことには悲しみを覚える。

まずTPPなどの多国間協定は名は協定だが国家間の約束であるから、条約法に関するウィーン条約で定義される「条約」である。
第二条 用語
1 この条約の適用上、
(a) 「条約」とは、国の間において文書の形式により締結され、国際法によつて規律される国際的な合意(単一の文書によるものであるか関連する二以上の文書によるものであるかを問わず、また、名称のいかんを問わない。)をいう。 さらに関税などの通商に関わる条約を通商条約といい、現在はWTO・GATTで規定されている。日本国憲法では、条約などの外交交渉は、内閣の専権事項である。
第七十三条 
三  条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。 しかし、内閣は事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とするとあるように、締結した条約の批准は国会の権限になる。国会が批准しなければ国内的な効力は発生しない。

日本国政府は世界貿易機関を設立するマラケシュ協定を締結批准しWTOの構成国である。これは憲法の九十八条第2項の規定により国内法を改正して対処しなければならない。
第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2  日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。 しかし憲法の条規に反する如何なる法律、命令、詔勅、及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しないとあるように、もし内閣が事後承認を要求した場合、締結した条約は国際的な効力を発生させるとされるのだが、国内的…

小和田恒悪玉論を問う ―衆 - 外務委員会 - 1号 昭和60年11月08日 その2

引き続き、村田春樹さんが國民新聞に書いた記事「小和田恒悪玉論を問う」への激励投稿を続けたいと思う。さて国会会議議事検索システムで昭和60年11月8日衆議院外務委員会の土井たか子委員の質問に対する答弁を検証しよう。

北朝鮮は日本の脅威ではない

北朝鮮の核開発問題は、日本にいろいろな教訓と示唆を与えてくれる。現在日本は、米韓と共に北朝鮮と対峙しているが、日本は、北朝鮮となぜ敵対しているのか、本当の敵は北朝鮮なのかという根本的な命題は、マスコミはじめ識者でも語られないままだ。今回はその辺を整理しよう。


北朝鮮問題の歴史的経緯 朝鮮民主主義人民共和国建国 1910年8月29日、大韓帝国は、日韓併合条約を専制君主である皇帝純宗が裁可することで、大日本帝国との合邦国となった。1945年4月12日、米国は、大日本帝国敗戦後の朝鮮半島統治に関して38度線での分割統治を提案する。1948年9月9日朝鮮民主主義人民共和国の成立は、その年の8月15日大韓民国の成立とともに、朝鮮半島における米ソの対立をより明確にすることになった。

共産主義による世界統治の実現のため、1950年6月ソ連及び、1949年に建国した中華人民共和国の支援を受けて、38度線を越境し大韓民国に進攻戦争を開始して朝鮮戦争が勃発する。大韓民国に駐留していた米軍を中心に国連軍―正式な手続きを経ていないので実質は国連派遣軍若しくは多国籍軍、が組織され、これを迎撃することになる。



朝鮮戦争 1950年6月25日宣戦布告なしに38度線で北朝鮮ソ連中国連合軍の砲撃が開始され、10万を超える兵力が38度線の越境を開始する。当時の韓国軍は兵力約11万人で装備は脆弱であった。さらに、北朝鮮のスパイ掃討戦や軍内部のスパイ粛清で士気は疲弊していた。米国及び国連は動揺するが、6月27日には国連安保理で北朝鮮を侵略者と認定して、その行動を非難する。さらに軍事行動の停止と軍の撤退を求める「国際連合安全保障理事会決議82」を賛成9反対0:棄権1の全会一致で採択した―ソ連は欠席。
韓国軍の崩壊と国連軍の敗走 韓国の李承晩大統領は、6月27日南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人を裁判なしで虐殺した―保導連盟事件。同時に、ソウルを放棄して水原に遷都した。このとき漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した―漢江人道橋爆破事件。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、韓国軍の士気がさらに下がることになる。

国連軍を指揮した、マシュー・リッジウェイ将軍は、退却する韓国軍が放棄した装備は、数個師団だったと述べ…

農協は必要か ―農業保護政策は農家保護ではなく、農林水産省OBとJA職員の保護にすぎない

この冬、北海道にずいぶん出張したのだが、その時聞いた話題を提供しようと思う。

通州事件の体験記 ―気の弱い人は讀まないでください

通州事件は 、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民に対する虐殺事件である。その体験記がある。讀むのも恐ろしい体験が綴られているのだが、歴史的事実を知るには貴重な記録であるので本誌の読者にも紹介する。あまりも惨たらしい体験記なので気の弱い人は讀まない方がいいと思ふ。
日本人皆殺しの地獄絵 私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあっ…