アジアの精神と日本の役割 -講師朴鐡柱先生

朴鉄柱大人を偲ぶ」(平成3年発行)より093p-107p

私と日本

本日の皆様との出会いは、私、神様のお導きであると固く信じております。

私、現在不治の肺ガンに冒されておりまして、余命いくばくもありませんが、死ぬ前に、是非書き遺しておきたいと思う 一念で、「私と日本」という題で目下昼夜を分たず執筆致しておりますので、一応自己紹介も兼ねまして私のことを申し 述べさせて頂きたいと存じます。

私の生まれは釜山の東?という所でございますが、そこは非常に封建的でしかも反日思想が強い土地柄でありました。私の家は両班(ヤンパン)と申しまして大地主の家ですから、特に反日的雰囲気が強かったのです。

それで私、小さい時、日本で云えば寺子屋のような所に漢字の勉強に通わされておりましたけれど、偶々小学校から日本のおまわりさんが来られて、正式に小学校に入れなさいと両親に説得してくれたんです。しかし両親は聴いてくれませんでした。で、私はどうしても行きたくて、両親に反抗してハンガー闘争と申しましょうか。三日三晩納屋に閉じ籠り まして、やっとのことで許されて小学校に行くことが出来たんです。

どうしてこんなことを申し上げるかと言いますと、実はこれが後に私が日本に目を向けていく契機になったからなんです。

つまりこういうことがあったんですね。小学校二年の時、満州事変が起りまして、日本の兵隊さん達が釜山に上陸して大陸へ向かうんです。私、その兵隊さん達のお見送りに毎朝行っていたんです。勿論両親に見つかったら大変なんですが。そうすると、或る日一人の兵隊さんが側に来て、「君は一人で来たのか」と聴くので、「はい、そうです」というと、頭を撫でてくれましてね。もう兵隊さんに撫でてもらったかと思うと、うれしくて感極まったんですよ。

それで、その兵隊さんと長くおつきあいさしてもらうため文通しようということになって住所を教えたら、その兵隊さんから軍事ハガキを頂いたんです。その方は上野という上等兵でした。満州事変が済んで帰るので釜山で又会いましょうというんです。それで、今でも忘れませんが、駅前に鳴戸旅館というのがありまして、そこに一泊してその上等兵さんのいろんな身の上話を聴いたんです。

その方は、國學院大学の皇典講究所を出た方でございまして、「君は日本へ行ってもっと勉強しなさい」と言って下さったんですね。その方とはその後もずっと文通致しましたが、後に惜しくもフィリピンの戦線で亡くなられました。しかも私が本当の思想の良導と愛情を受けた恩師でありまして、その方が神主さんだったので、私もそれなら同じ様に神主さんになろうと決意したんです。勿論家族は大反対で、筆舌に尽し難いものがありましたが、私も少々我が強く諦めなかったんです。

それから中学の時には、偶々こういうことがあったんです。当時は韓国併合時代でありますが、大陸では、戦争が始まっており、物資の配給の割当などがあったんですね。ところが日本人には砂糖を配給するが、韓国人にはしないといった不公平がいろいろありまして、その時私は総督府に乗り込んで「どうしてそのような差別待遇をするのか、これは天皇さまの一視同仁の大御心に反するじゃないか、お前たちは幕府的存在だ」と言ってやったんですが、そのために初めて留置場に入れられてしまいました。

そんなことがありまして、私のどうしても日本へ行って日本の勉強がしたいという気持は益々強くなり、無理に無理して到頭國學院大学へ行って皇典講究所に学ぶことが出来た次第です。

ところがそれからが又一大難関でありました。つまり当時創氏改名と云いまして日本の氏名に変えないと対等の扱いをしてもらえないということだったんですね。私の家は絶対反対でしたが、私は自決も辞さない覚悟で血判を押して両親に訴えて闘い抜いたため、私の一家全員創氏改名致しました。

そういうわけで、私の一生というのはまさしく日本を置いては何も考えられない状況で勉強させて頂いたわけです。

そういうことでしたので、終戦になって帰韓しました時は、当時の李承晩から迫害を受けまして、直ちに民族反逆者裁判にかけられて約三ケ月投獄されましたし、その後本を書いても出せないという有様で、いろんな苦労を致しました。

まあ、しかし今日こうして皆様の招待を受けまして私も神主でありましたから、なつかしさ限りなく、しかも昔奉仕を致しておりました住吉神社で玉串拝礼をさせて頂きました時は、関節にガンが転移しておりまして決して座ることが出来なかったのに、不思議にもちゃんと正座が出来まして、「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌の真情そのままに感涙にむせんだ次第でした。

私自身のことを長々と申し上げて誠に恐縮ですが、一応こういうことを申し上げておかないと、私の立場やお話の観点がよく御理解頂けないかと存じまして御無礼を致した次第です。

日韓交流の淵源

さて日韓の問題と申しますか、日本の歴史を通観致しますと、文禄・慶長の役、日清戦争、日露戦争など国運を賭した歴史には常に韓国問題が表裏一体となって続いて来ていることが分ります。ですから、アジアの問題を考えるためにはどうしても日韓の歴史を抜きには出来ないということです。そこで日韓の関係を出発点として若干申し述べさせて頂きたいと存じます。

かつて徳富蘇峰さんが、「韓国問題の発端」という本を出したんですが、それは第一に日韓問題は地理的条件であるということを申されているんです。つまり太古の時代日本と韓国とは陸続きで一つだったという想定で論じているんです。後に日本海の陥没とかがあって二つになったけれど、その前は一つの国であって、日本の上古史というものは韓国を除いては成り立たないとまで言っております。

実は私も学生時代、全国を歩いて廻って韓国の古代宗教をいろいろ調べたことがございますが、日本の神道と全く同じ形態の宗教が韓国にもあったんです。今でも田舎に行くと残っています。韓国の部落に行きますと、部落ごとに何百年も経った大きな木がございまして、それに注連縄を張って村の長老が五穀豊穣の祈りや感謝祭をしたりしまして全く日本と同じなんです。

これは儒仏伝来以前からの民俗ですから、私は研究しながら日韓の古代信仰は一つだったんだという信念を持たざるを得ませんでした。これは一つ皆様も念頭に置いて頂いて充分考えて頂きたいと思います。

先日下関の青年神職の方々が来られまして金海市の駕洛で雅楽の奉納をされましたが、その駕洛というのは日本の「古事記」にも出てます伽羅のことです。この国が洛東江沿岸にありました最初の農耕民族なんです。日本初弥生時代の頃です。

それに対し北方の民族は騎馬民族で獰猛ですから、いつも痛めつけられていましたので日本の支援がほしかったわけです。それで彼我の交流が深まったんですが、そういう跡が残っています。例えば墳墓ですが、ドルメンと云いまして、人を埋めて一枚岩を乗せるわけですね。これが九州にもありますし、南朝鮮にもあるんです。これから見ましても日本と南鮮は一つの文化圏にあったことが分かります。

これは今日日韓の問題を考える上でも重要な出発点であり、基礎であると思います。これを無視すると相互の理解がむつかしくなります。

それが飛鳥、奈良時代になりますと、日本の政策が中国へ変るわけですね。随唐の時代です。しかしその間にあっても日韓の交流はずっと続いているんです。文禄・慶長の役の直後は少し絶えますが、あとは江戸幕府の時代も対馬の宗氏が年間二十艘の船で、いつも釜山と交流していました。

征韓論の真相

ところが、明治維新後は彼我の立場に大きな齟齬を生ずることになりました。そのために、例えば征韓論といった問題が生じます。しかし私は却って木戸さんや板垣さんの方が強硬派であって、西郷さんは絶対に征韓を意図されてはいなかったと思っています。西郷さんは征韓問題で初の閣議があった時、板垣さんが軍艦を率いて行って聴かざれば戦端を開くべしと主張したのに対しこう言っているんです。「日本と韓国は兄弟の関係であるから、ケンカをしてはいけない。自分をよこしてくれ。自分は寸鉄を帯びずに行って韓国の人と膝を交えて話せば分る。それでもし自分が殺されることがあったらその時は自分の死体を乗り越えてどういう風にしても構わん」と。信を相手の腹中に置いて話すならば必ず分るというのが西郷さんの論ですが、それはついに通らず、西南戦争まで行ってしまったんですね。

在野志士の尽力

この時期、明治新政府は富国強兵、殖産興業といった目標を立てて西洋一辺倒だったから韓国問題には余り真剣でなかったんです。ところが玄洋社に代表される在野の勢力の方を調べてみますと極めて真剣だったんです。例えば福沢諭吉という人も在野の人だったんですが、この人の努力で韓国に初めて「漢城旬報」という新聞社をつくったんです。当時の韓国にはそこまでの民度も財力もなかったので、諭吉は私財を投じ井上角五郎という門下生を派遣して、しかも清国の勢力が入って韓国を属国化していたそのさ中にこの快挙を成し遂げたんです。これは歴史的なことで、当時の
日韓交流のいい仕事の一例です。

又東学党の乱と申しまして、当時政府や両班階級による搾取がひどくて農村が疲弊したのを慨し、西学に対する東学を奉ずる全?準が率いる農民が全羅北道で蜂起したんですが、これに黒龍会の壮士達が、天佑?という義軍を組織しまして、ロバに武器を積んで釜山に上陸し、はるばる山を越えて支援に出かけたんですね。

このように在野有志の人達はいつも命がけで韓国問題に取り組んできたんです。ところが韓国政府は清国の軍隊を多数導入して徹底的に懲罰したんです。その時日本政府の方は全然援助もしなければ、ソッポ向いてたんですね。だから当然戦いは敗れましたけれど、おかげで清国の勢力が韓国内に強く入って来たため、日清間が険悪となりついに日清戦争になったわけですね。

韓国併合の経緯

しかし日本が勝ちまして、韓国から清の勢力は駆逐されたわけですが、今度はロシアが入って来て不凍港を求めて馬山に軍港を築いたんです。日本には大変な脅威になります。その時、時の宰相金弘集は、日本の援助で近代化しなければならんと考えていたんですが、国王はロシアを頼んでロシア大使館に入ってしまったんです。そして一年以上に亙ってその中から政府を指揮したんです。しかもロシア公使が金弘集は悪い奴だから殺せと言うと、その命を受けて彼を目の前で殺害したわけです。

私は既にその時に李氏朝鮮は自ら独立権を放棄したと思っているんです。

そういう状況で益々ロシアの勢力が侵入して来ました。そうすると朝鮮もロシアにやられる。日本は一体どうなるかということで、日露戦争が起きたんですね。まさに国運を賭した大変な戦争だったんですが、まあ幸い日本が勝ちました……。そういう勢いというのがありましてね。

一方の韓国は今も申しましたように、国王がロシアの公使館に亡命してロシア公使の采配を受けて宰相を殺すという悲惨なことで、およそ一国としての自主権もなく、その能力もなかったわけですから、東亜の安定のために孤軍奮闘し多くの同胞の血を流した日本が、それに懲りて日韓の合邦に持って行ったのも責められぬ所があると思うんです。

帰化人の優遇

私、長い日韓関係史を勉強してみまして、日韓古代史がひと続きであるという感を深くしました。これは地理的に、例えば慶尚南道から舟に乗ったらじっとしていても裏日本に着いてしまうという条件ですから、恐らく北九州、山口県、島根県などは殆ど韓国の人が、政変の多い国ですから亡命して来たと思うんです。

政変で亡命して来た人は政治担当していた人ですから、皆文化人なんです。そして日本の方でもこうした帰化人を優遇しているわけです。

鹿児島に行きますと、シンさんという陶工の家柄で十九代の人がおります。私会って話したことがあるんですが、文禄・慶長の役で島津藩の軍隊がやって来た時に、彼の先祖は司令官として町の前門を守っており、後門は明軍が守っていた。ところが前門は落ちなかったけれど、明軍が逃げたために後門から落ちてとうとう捕虜になってしまったそうです。しかしその人は大変博識な人格者だったので島津のさむらい達も尊敬して解き放してあげたんですが、今度は韓国政府からも追い払われてしまって家族全部を引き連れて捕虜になって日本に帰化したそうです。

鹿児島では触れを出してその一族に住居と、陶工としてやっていけるための良質の土の産地とを世話してやって対等の身分を与えたんです。その方が五年前に韓国にきて高麗大学で講演したんです。

日本は決して侵略的でも暴力的でもありません。文禄・慶長の役も日本がめざしたのほ明国であって、韓国にはただ道を開けてくれということだったんですが、大陸続きの関係上韓国は明に従わざるを得なかったので戦争になったんです。

日本に悪意なし

今いちいち申し上げる暇はありませんが、日本は善意はあっても悪意というものはなかったと云える。さっきも申しましたように日韓併合だって悪意じゃない。これも放っておけば、日清戦争でやっと独立権を回復してやったのに、又ロシアにやられてしまう、これじゃいつまで経ってもだめだ、それじゃ自分たちがやってやらなきゃだめだということなんで、私は善意に解釈すべきで、決して悪いことじゃないと思います。

私一つだけ強調したいのは、昨今の教科書問題とかで日本の侵略だとか何かと言っていますが、これは欧米諸国のようなものではありません。欧米のアジア侵略こそは筆舌に尽し難いものがあったわけです。皆さんもよくご存知だからいちいち申しませんが、ジャワ、インド、ボルネオ、すべて席巻して独立国と云えるのはシャムと日本しかなかった。中国だってアヘン戦争でズタズタにやられている。事実はこういうことなんです。

歴史教育の欠陥を匡せ

ただ問題なのは今日の日本と韓国はどうしたらいいかということです。これは大変な問題です。

先づ日本のことを申してすみませんが、日本は歴史教育が全く欠けております。なぜ歴史を教えないかというと、GHQの政策をそのまま受け継いでいるからです。これじゃいけない。教科書にその国の価値観持つのは当然です。するとね、韓国騒ぎ、中国騒ぎするから取りやめる、これじゃいつまで経っても本当の歴史は成り立たない。このことを皆様真剣に考えて頂きたい。

と申しますのは、何度も申すようですが、日本は決して悪意でやって来たんじゃないということです。欧米の侵略戦争はもっとひどかった。それに比べれば何ということはありません。

まあ、大東亜共栄圏ということばはあまり好きじゃなかったんですけれど、要は弱者を保護し解放するということが日本本来の思想だったんです。これは極めて正しいことです。そこが歴史をまともに教えないから、皆様がもう卑屈になったという経緯がないでもありません。ですから、そこの所を皆様方が若い人の教育に熱心に当って頂きたいということをお願いする次第です。

経済のみでは真の友好にはならぬ

それから韓国も然りですが、教科書問題を始めいろんな問題で日本をたたくのは、これ援助してくれとか、お金をくれとか、借款くれとか、経済的魂胆が必ずあるわけですよ。だから、煩わしい、うるさいからやってしまえということではアジア問題、日韓問題はいつまで経っても同じなんです。そこの所をよく考えて、日本の政治家は勿論ですが、皆さんの周辺からも正しい歴史教育が出来るようにして頂きたいと思うんです。

本当のアジア問題の解決には、自主性が第一。自主的な教育、自主的な憲法に基ずくことです。相手が聴かなければ説得すること、相手がすねていたら引張って来てでもやるという気概を持たないとダメだと思います。煩わしいから金やってしまえばそれまでだというんでは、いつまで経っても解決しないと思うんです。

韓国でも中国でも過去の歴史にこだわって好きなこと云わせていたらキリがないですよ。よく南京事件のことを持ち出しますが、その前の済南事件などは日本の人がたくさんやられているんですから。

私、大変僭越なことを申し上げましたが、これがこれからの日本の進み方の基本になると思います。これが出来ない限り、お金の援助をいくらやってもキリがないんです。

大アジア主義と日・韓・中の志士
戦前の日本の国家的行動を「侵略」の一語で片づけるような歴史観は、本当の事実を全く無視しています。

中国革命の父孫文は当初滅清興漢をスローガンとして戦っており、玄洋社の頭山先生など日本の民間志士とのつながりが深かったんですね。偶々日露戦争が起きて日本海海戦で日本が大勝した時、孫文はロンドンに亡命していましてイギリスの高官と話をしたんですが、日英同盟の最中というのにその某高官は、白人が有色人種に負けたのが悲しいというんです。というのは、イギリスとしてはロシアの南進政策を阻止する防波堤とするため日本と利害関係で結ばれていたに過ぎないのです。しかし最早日本の防波堤としての役は終ったということで、白人が負けたことが悲しいという
んですね。

そこで孫文は一念発起しまして日本と提携しなくちゃいけないというので帰国して来るんです。そして中東アジアの港々に船が泊まると、原地人達からあんたは日本人かと云われ、理由を聴くと有色人種が白人に勝ったのが嬉しいと云って喜んでいるんです。それで日本に来た時、大アジア主義という演税をしたんです。そしてこの時、満洲は日本に与えてもよいと云っているんですね。というのは満洲は清国を興した女真族の故郷であって、孫文としては清を中国本土から追い払って漢民族の国を建てようとしているわけですから、満洲を中国の一部とは考えておらず、寧ろ日本が投
資してアジア防衛の根拠地にしてもらった方がよいと考えたわけです。

だからこの方向に沿って日本の国家権力も動かされてきたわけで、日本は悪いことをしてないんですよ。少なくとも政府はどうあれ、在野勢力というのは本当にアジア諸民族の味方になって連携を保ってやって来ている。先程も云ったように黒龍会が東学党を支援したり、玄洋社が辛亥革命やフィリピン独立運動を支援したり……。

そうしてみると、明治維新のパワーというのは、政権の座に就いた側になくて、在野の人達に大きな維新精神が受け継がれてアジア問題を常に真正面から捉えて来てたんですね。

私も頭山先生に戦前一度だけお会いしましたが、君は金玉均タイプだと云われました。金玉均というのは、御存知だとおもいますが、福沢先生の門下でもありまして李氏朝鮮末期独立党を作って親日政府を構成し日本と協力して韓国を立ち直らせて東亜の安定を保ちたいと主張したんです。それを時の日本政府は相手にしなかったんですが、頭山先生らは支援し続けたわけです。これは非常に価値あることだと思います。こうした在野の努力を除いて近代日本の歴史もあり得ないと思います。

だって当時日本政府の高官は鹿鳴館に象徴されるように欧米模倣になり切って何もなかった状態です。伊藤(博文)さんなんかも、料亭に行くと、頭山さんが来てないか、と聴いて来ていない、というと入ったというんです。来てるというと逃げちゃうんですよ。それくらい時の首相も在野勢力を恐れていた。後の首相になった犬養さんなどもその頃は玄洋社の志士だったんです。

今日でも皆さん達のような民間の人こそが真の日本の歴史に立って尽力して頂ければいつか必ずアジア諸国との深い理解と友好が成り立つんじゃないかと思います。

民間レベルの文化交流を促進すべし

政府に任せたらダメなんです。私のよく知っている立派な人でも政府と結託すると必ず悪く染まるんですよ。

私自身も朴正熙の時代から共和党に来てくれと云われたことがあるんですが、私は日本文化のこと以外は政治も知らないし、但し「古事記」なら講義しましょうと云って断りました。それが却って向うの心証を害してしまいまして弾圧されたんです。「日韓間題の将来」という本も書いたんですが、反共法に引っかかって刑務所に入ったんですよ。こういうように政治家に任せると目先に追われてダメなんです。在野の方が結束して勉強し、修行教化していけばやがて実現します。これが基本だと思います。

但し日本はゆくゆくは憲法改正しなくてはいけませんね。私どもの情報では韓国政府もおいおいよくなりつつあるらしい。というのは韓国野党に私友人がいるんですが、結構立派な人がいますので、次期政権は野党に帰ってくると思うんです。すると私も遅ればせながら命ある限り協力してやっていきたいと思います。

今まではよくないことばかりでしたが、日韓の文化交流の根は非常に深いんですから、これを民間の力で充分掘り下げていく研究機関を作っていけば必ず道が開けると思います。

私の悲願

私、冒頭にも申しましたように「私と日本」という本を書いておりまして、個人的内容かと思うかも知れませんが、これを書き通しておきたいと思うのは、韓国の若い人の将来のためなんです。私が先駆者とは申しませんが、少なからずそうした気概で書いていますから、日本文化の理解に一生捧げ尽くしたいということは誰か分かってくれるんじゃないかと思うんです。

貴重な時間を私ごとき者のお話をお聴き頂き、有り難く存じました。今後とも御指導賜り相携えて仕事をしていきたいと思います。