あまちゃん深読み ―原発事故被災者を逆なでする人達

9月28日NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が最終回を迎えた。少し寂しい気がするのは私だけではないだろう。ショートコントの継接ぎのようだったので、若干辻褄が合わないところや、「そんな簡単じゃねぇだろう」というところもあったが、毎日放送が待ち遠しいくらい楽しみに観た。

船が出るからに決まってるだろ

主人公の天野アキの祖父、天野忠兵衛さんは、年に1回か数年に1回、家に帰ってくる、マグロ船に乗る漁師だ。その忠兵衛さんと娘春子の元夫で、再婚が決まった黒川 正宗が、妻の春子が、急に北三陸に戻ったのを追いかけて、春子の実家に来た時、鈴鹿ひろみのリサイタルで北三陸の人々がかかりっきりで、誰も相手にしてくれないことに、少し腹を立てて、再び漁に戻るときにこんな会話があったのだ。

「お父さん、もう行かれるんですか、あした北鉄の開通するし、海開きなのに、何故ですか?」
「船が出るからにきまってるでぇねぇか」、このあとに、「少し頭にきたから誰にも見つからねえで行くんだ」と云うのだが、次の日にたくさんの行事があるにもかかわらず、行く理由は、船が出るからで、行き方が、 誰にも合わないでということになる。忠兵衛さんにとって行動の基準は常に船の出港時間であり、個人の感情ではない。

さらに、船がでるという基準は絶対の基準で代替が効かない。その時刻を過ぎれば船は沖に行ってしまい、半年一年帰ってこない。機械文明が発達する以前の人類にはこのような絶対的なものが多くあり、人間は自分の主観より、それに行動を合わせていた。季節の野菜はその季節、土地の産物はその土地に行くしか食べられなかった。文明は距離を短縮し時間を超えて、人類の利便性とワガママを実現してきたということにならないだらうか。

誰にも見つからず沖へ行った忠兵衛さんを妻の夏さんは「行くなといっても、いぐ、行けといっても、いぐ」と評するが、その真意は代替の効かない絶対なものに従う忠兵衛さんを「誰も止められねぇ」ということだろう。自然を相手に、自然の恵みを頂き暮らす人々の自然への流儀だ。それが宮藤官九郎が言いたかったことだろう。

おかまいねぐ、津波のことは忘れられね

リサイタル本番前、鈴鹿ひろ美が、歌詞の幾つかが震災の辛い体験を思い出させるのではないかと夏さんに尋ねたところ、夏さんは「おかまいねぐ、津波のことは忘れられね 」と余計な気遣いはしなくていいとたしなめるシーンがある。私達の多くが震災後いろいろなことを自主規制して、思いを共有しようとしたが、それはむしろ当事者にとっては余計な気遣いだというとだろう。北三陸の人達は震災で身内を亡くしたり、家を失ったりしたのだが、海の恵みを生活の糧としている人達にとって海は恩惠を与る神様であり、また時には荒狂ふ悪魔でもある。しかしそれは逆らふことが出来ない絶対の存在だ。

その海が、一方の鬼になったからといって、海に恨みをいえるわけがない。だから振り向かず前を向いているときに、事情がわからない外の人間が、余計な気遣いをすることは的はずれなことになる、という宮藤官九郎の戒めだろう。この文章の海を「原発」という言葉に変えてみるとその反対運動が地元民のとって有難迷惑なのとがわかるだろう。海は生活の糧でもあり、身内を奪った鬼でもあるのだ。他人様がその気持を忖度することは難しいだろう。

金持ちがもっと儲ければ、おらたちも元気になる

夏さんは三組合同の結婚披露宴のスピーチでこう言う。「荒巻き鮭ぇ、こんな田舎さ、目をつけたのは正解さ。金持ちがもっと儲ければ、おらたちも元気になる」。昨今は資本主義は格差社会と助長したと評判が悪いが、資本主義以前の社会に比べれば、格差は開いたかもしれないが、底辺は間違いなく底上げされた。紛争が絶えない途上地域はまだいく分あるが、人が貧困でなくなることは、根絶されたに近い。それを牽引したのは人々の欲だ。

資本主義が成立する条件に所有権がある。人が自然を一時的に「所有」する概念の法律化が資本主義の最低絶対条件だ。自分が所有するところに所有しているものへの価値が生まれる。そしてその価値を少しでも高めたい、増やしたいという欲がさらに価値を産んでゆく。その循環を資本主義と呼んだだけのことだ。

17世紀のイギリスの作家バーナード・デ・マンデヴィルはそういう資本主義の一面を、蜂の寓話―私悪すなわち公益で書いている。個々人の強欲が全体として公益になっているということだ。車も個人で所有することで大事にする。少しでも下取り価格を下落させないように努力するはずだ。それが俯瞰すると資源を無駄にしない努力になる。個々人は資源の無駄使いを是正しようとしているわけではなく、個人の利益のために「綺麗につかう」という行動に出ているのだ。

太巻氏は、奥様でもある鈴鹿ひろ美のたっての願いで、北三陸でのリサイタルを挙行するが、もちろんそれだけではない。それまで自身のタレントを連れて東北へ慰問に行くと、「売名行為」だと揶揄されていた。「慰問」ということを全面にだすと裏で「どうせ金儲けだろっ!」となる。夏さんは、はじめからビジネスとしてリサイタルをすれば―今回は結婚披露宴も兼ねたが―、実はそれが東北の人のプライドを傷つけずに、元気にできるということを言いたかったのだろう。

宮藤官九郎のメッセージ

メッセージは二つある。ひとつは震災後被災地域外で起きた自肅に対する批判だろう。自身も宮城県出身で震災後は前説した「余計なお世話」を実感したのだろう。前を向いて生きようとしている人には「おかまいねぐ」ということだろう。

もう一つは反原発運動をしている人への批判だ。自分の利益のために反原発を主張している人はまだ救いがある。蜂の寓話にもあるが個々人の私慾は公益につながる。自分は放射能を浴びたくないとあくまでも自己の考えとしてそれを主張することは間違いではない。

問題は、あたかも原発事故被災者の気持ちを、忖度するように反原発を主張して、被災者を顧みないような連中への、痛烈な批判が込められていると思う。自分の主張として原発の廃しを訴えることはむしろ自然だが、福島の被災者のためにもすべての原発を廃しせよといっている連中は、荒巻と同じ売名行為だ。

何らかの形で、原発付近の住民は原発を受け入れて、そこから糧を得ている。だからそれが悪魔となって襲いかかってきても、海女さんや漁師が海を唾棄しないと同じ感情があるはずだ。そんなこともわからない都会の主婦が、福島の事故被災者を人身御供にして、自らの利益を履行しようしていることへの、宮藤官九郎の批判が込められているような気がしてならない。しかしじつは、あまちゃんを題材に反原発派への、私自身の批判を、宮藤官九郎が言っていると書いているだけかもしれない。

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