TPPを批准締結する条件を考える ―我が国には自由貿易体制が必要
そもそも法人ではない(少なくとも私はそう考える)政府を代表する「益」を明確化することは難しい。一方、政府は組織ではあるので組織益なら明確にできる、という反論もあるだろう。過去、「省益あって国益なし」と言われた官僚組織がそうだ。しかし政府の組織益が国民の利益と合意するとは限らない。国益の「国」とは国家(政府)の「国」なのか、国民の「国」なのか、またはネイションの訳語としての「国(邦)」なのかも定義されていない。
我国には自由貿易体制が必要
TPPはGATT・WTO体制の例外として認められ交渉されている地域貿易協定 RTA であると論じた。実はWTOはアメリカ政府(アメリカ議会は消極的)が積極的に推進していた国際機関の一つだが、我国政府もアメリカ政府に追隨して、積極的にこれを利用してきた。理論としての自由貿易体制は安全保障丸投げの、我国の国情国益に合致していた。それはこういうことだ。資源がなく国土が狭い我国は、農業国から工業国に移行するには、農地を工業用地に転換する必要があった。耕地面積の減少は当然食料の自給率を下げることになる。人口の爆発的増加と農地減少は必然的に食料の輸入依存という結果を招く。
更に工業(物造り)による経済成長は原材料、エネルギーの輸入依存も招聘することになる。ところが、それらの輸出国が政治目的で、恣意的に価格を上昇させたり、他国と差別して我国には販売しないという行動をとるようになった。第1次オイルショックだ。我国は戦後未曽有の混乱になったことは私も記憶するところだ。
GATT・WTO体制による自由貿易とは「関税を撤廃する」という経済的な目的はもちろんだが、経済行為に政治は不介入という、古典的リベラリストの基本原則を、地球上に確立するという政治目標―政治は不介入という、政治目標という表現は二律背反的だが―があった。我国のアメリカ追従ではあったが、GATT・WTO体制推進の目的はむしろ後者にある。
売らないというのは主権的行為として実現容易だが、買うという行為は主権があろうがなかろうが、相手が売らないと買うことが出来ない相互的行為だ。「主権で認められているから売れ!」といくら騒いでも相手が「売らない」と言えば悲しいかな買えないのだ。
相手が売らないといってそれを買えないと、食料なら餓死、エネルギーなら凍死という事になりなねない。先に指摘したとおり我国の経済成長は食料の自給を犠牲にして工場を建てた結果なのだ。それは餓死の危険と引き換えにした賭けだったといえる。
もしそれでも売らないというなら、軍隊を派遣して食料を確保するしかないわけで、侵略の汚名を受ける可能性はあるが、国民が餓ゑているにもかかわらず、手をこまねいている為政者など必要はないわけだから、戦争に訴えるしかないのだ。そこでそういう戦争を未然に防ぐ智恵、そういう戦乱を避ける方法を人類は考えだした。それが自由貿易体制だ。
ルールに則って、買いたいという商人に正統的な理由がなく、政治的恣意的に売らないということを違法にするルールの確立が、関税撤廃とともに自由貿易体制の基本だということを踏まえると、我国は自由貿易体制こそが、我国のみならず、あらゆる国家の生存とって死活的に重要だということが理解できるだろう。
リベラルアメリカ主導では理想は実現しない
ところが国際社会の本音と建前は、本来の自由貿易体制とはかけ離れた自由貿易体制を戦勝国中心に構築した。我国は戦勝国に、コバンザメのごとく寄り添って、敵対する経済体制と、しのぎを削っている間は利益を享受できたが、その敵対国が同一の経済体制に組み込まれると、そうもいかなくなる。ルールメイキングが我国に不利になる場合が生じ始めた。さらに市場のルールを社会的ルールに引き上げて、普遍的な交易ルール確立が目的であった GATT・WTO がアメリカ政府の恣意的運用で骨抜きにされるようになった。アメリカ政府の国連私物化どころか無視はいい例だろう。アメリカ政府が推進した、自由貿易体制は根本から揺さぶられることになる。
国際機関を、恣意的に運用し始めるアメリカ政府の思想は、修正リベラリズム、もしくは新自由主義といわれる、正義を市民社会のルールの基本にしようという思想だ。そのためには不正義を軍事力で粉砕することも辞さぬということだ。さらにその「リベラル」よりも、世界秩序構築にむけて、もっと積極的に行動すべしだと、リベラルから転向したのが、ネオコンサバティブ、ネオコンだ。
私のような古典的コンサバティブ 、古典的リベラル、古典的リアリストを信奉する思想からは対極的だ。平等に重心を置く共産主義との違いは、自由を基本に理論構築がなされている点だ。しかし世界観とそれを実現させる手法が、共産主義と同じく「闘争」にあるということだ。
競争状態で、個人の多様性を認め、それらを調整する方法、つまり自然に発生したルールを大事にする古典的リベラリスト、過去から蓄積された習俗、コモン・ローに信頼をおくコンサバティブは、つまり主観主義、言い換えれば個人主義を基点に多様性を包括する。一人の人間を国家に置き換えても同じだ。
しかし修正リベラリズムや、その転換系であるネオコンは、個人や国家の多様性は認めず、正義が絶対だ。その正義はカント的な正義、つまり理性による正義なのだ。彼らにとって自由貿易体制は、内容はともかく、最終的にそれが実現されれば正義なのだ。
一方、古典的リベラリストやコンサバティブは、実現される結果よりその手続を重視する。さらにその手続は自生した秩序、つまりルールで運用されるのが望ましいと考える。本来の自由主義は、個々人が主観的(自由)に取引しているうちに、普遍的かつ一般的でだれでもが利用できる公知のルールが発生する、あるいは発生している状態の場所を市場だとして、市場には、なるだけ強制を排除する、つまり自由にするということだ。自由貿易は元来市場にあった自生秩序を地球上に実現する動きともいえた。―A・スミスやハイエクは交易と表現している。しかし第一次大戦後発足した各種の国際機関、第二次大戦発足した国際機関、両者とも修正リベラリズムの影響下、正義の秩序という理性人知に陥ったと考へられる―
武器としての自由貿易体制
2010年尖閣諸島をめぐる件で、中国が我国へ、レアアースの輸出規制をしたが、これを日米欧はWTOに提訴して、中国側がおれたという事件がある。WTO 加盟国は、正当な理由がない場合に、制裁的輸出規制をしてはならないからだ。同様に現在、韓国政府が、日本が輸出する食品へ課している輸入規制を、我国政府は WTO に提訴するという情報もあるように、我国の貿易にとってGATT・WTO 体制は武器になる場合もある。GATT・WTO 体制の例外であるTPP はアメリカの修正リベラリズムを排除して本来の自由交易の理論になれば、我国の交易にとって武器になる場合があるのではないだろうか。
TPP で修正リベラリズム的な制度と考へられるのは、司法の独立という、自由主義に必要不可欠な体制を揺るがす、ISDS 制度ではないだろうか。これは域内貿易で発生したトラブルを国際機関で仲介処理しようとする試みだが、そこには強制が含まれていると考へられる。
もう一つ、知財に関する取極めは政府の強制をできるだけ排除するという、自由主義、個人主義とは反する、修正リベラリズムと親和性の高い内容を含んでいると考えられる。TPP がGATT・WTO に準拠しさらに、売りたい人と買いたい人の間で、自生したルールに基づく貿易ができるような、外部的形式的な手続きを極める程度の条約に進化するのであれば、我国は積極的に進める必要がある。