米国の戦略 ―日米平行協議という法規戦
現在TPP交渉とともに粘り強く行われているいわゆる日米並行協議だが、平行協議が何故行われるかを論じた議論が少ないので考えてみる。いくつかの議論を参照してみても、日米平行協議の問題点を、その片務的な内容であると指摘するのみで、米国の狙いが経済的な分野のみだとする見解が多い。
しかし私は、アメリカの狙いが、アメリカの国内法を―慣習法。アメリカの法律は日本人に理解することは困難だ。各州は独自の憲法、州法を制定しているし、連邦の権限は主に8条に示された18項目で、それ以外の権限は州に帰属すると考えられている―、日本の民法典に反映させることだと考えている一人なので、そのことと日米並行協議はどう結びつくかを論じてみる。
民法というのは、国家建国以前から存在していた社会的慣習の集大成であり、社会規範の集合だ。つまりそれは、立憲国家立国以前から存在しているので、国家といえども介入できない―国民主権を考えると、主権者国民のルールに国民が組織した国家があれこれと口をだすのはおかしいということ―とされている。私逹はそれらの規範に拘束されて、自主的に秩序を維持しているとすれば、国家に対する憲法と、国民に対する民法は、それぞれ命令対象とする集団は違うが、同じ働きをするといえる。
憲法や行政法などと対比して、民間の法を私法と呼ぶが、そのような慣習や規範を、法律的な言葉で置き換えると私法秩序という。先に私法秩序―私達のルール―には近代立憲主義国家は介入できないといったが、それを端的にいう言葉が、小さな政府ということになる。国家はなるだけ私法秩序には介入せずに軍事、警察、消防のような公共財に特化して、国民生活を守ることを期待されていた。
ところが現代立憲主義国家はさまざまな行政サービスを通じて、私法秩序に介入をしてくるようになる。当然それらはサービス受益者である国民の要請でもあるのだが、 それ以前に、なぜ私法秩序を国法として制定されなくてはならないかという問題がある。つまり私達のルールを国法として、国家の強制力を使って、国民に強制させるのか、という問題だ。
それはこういうことになる。私法秩序を裁判の基準として―裁判規範―制定することによって、司法が紊乱者を裁くことができるようになる、ということだ。私達の社会は、国家という強制力が存在しなくとも、社会的な制裁を行うことで秩序を維持してきた。村八分という仕打ちもその一つだといえる。
社会が大きくなるにつれ、私人が私人を裁く、私刑、いわゆるリンチを、国民が選んだ代表で構成されるところの国家が、国法として民法典に制定されて初めて、独占的な強制力が発揮され、その独占的な強制力によって、―国民が納得できるような―、秩序を維持できることになる。私法秩序に強制力を持たせるために国法化が必要なのである。
さらに裁判規範として私法秩序を国法として制定するにあたり、広く国民社会の慣習や規範になっていないことを法制化すると、私逹は慣れ親しんでいないルールを人間関係に取り入れなければいけなくなる、ということだ。主権者の要請は、そういう存在しない慣習規範を国家が、裁判規範として国法化するなということだ。
ところが現代立憲主義国家は、近代立憲主義国家の、最低限の秩序維持を役割とした夜警国家から、積極的に国民を保護する福祉国家へと変化した。と同時に国民に権利への不可侵を規定した、消極的な権利実現を役割とする国家から、国民の権利を積極的に実現する役割の国家へと変化した。このことは民法にも影響し、本来、国家と国民の間で規定されていた権利義務関係が、私人間と私人間との間でも実現されるように要請されるようになった、といえる。
つまり、本来国家が介入すべきでない、私人間と私人間の関係を規定している私法秩序を国法化した民法に、私人間の自由を拘束するような修正を加えなければならなくなった、ということだ。プライバシー権などはその典型だろう。しかしその修正は、私法秩序が国法として制定された民法との間に、ズレが生じた場合の修正でなければならない、ということになる。私人間間の関係規範や慣習が変化した場合、それを修正する法律の変更は許される、ということだ。
違う視点で考えれば、私法秩序という国民固有の権利を実現するために現代立憲主義国家は積極的に民法を修正する必要がある。私法秩序の変化として、実現してほしいという権利を、実現するのが現代立憲主義国家の役割だからである。しかし私法秩序に拘束される国家は、私法秩序に含まれない慣習や規範を裁判規範として国法化すると、そのことによって他の私人間の権利を侵害する可能性がある。よって国家は私法秩序に存在しない慣習や規範を国法化することは出来ないとする、議論が有力となる。
さて話が核心に入るが、ある国の国民の私法秩序と、また別の国民の私法秩序は当然相違がある。慣習や規範といったものは宗教と関わりがあるからだ。世界には5大宗教を始め大小様々な宗教があり、それぞれに慣習や規範がある。よって国際社会には合意された私法秩序はまだ存在してない、といえる。少なくともそういった慣習や規範が、合意できる範囲で、国家という枠組みが形成されている、と考えられる。
とすると、ある国の私法秩序に慣れ親しんだ国民が、他国で生活やビジネスをするにあたり、自国の私法秩序では合意可能だが、他の国の私法秩序では合意できない、という事態はありうる。というか、各国でそれによって係争が絶えないのが、今のグローバル時代の国際社会だ。
であるならば、現代立憲主義国家が国際交渉を通じて、自国の私法秩序を他国へ伸長させようとする行為は、自国国民の要請であるとともに国家に課せられた義務になる。近代立憲主義夜警国家から、現代立憲主義福祉国家に変化した国家は、必然的に他国の民法に介入することが、自国民にとって正当化される、ことになる。
日米の関係で考えればアメリカが、自国の国民が営む企業の要請で、その企業が慣れ親しんだ私法秩序で経済活動を行わせようとすることは義務となる。しかし国際交渉でそれを実現させようとした場合、以前論じたように違憲立法の問題が立ちはだかることになる。さらにこの稿で検証した私法理論からも、私法秩序に存在しない慣習規範を立法する事もできなない。
そこで我国の民法を国際条約の内容の通り修正させるための智恵が、法的に拘束力のない日米並行協議で取極めた規範を、行政指導などの方法を使って民間に浸透させ、それを根拠に私法秩序の修正ということで、それを国法化するという手法だ。
条約を署名しても議会の承認が得られなければそれは無効だ。議会が承認してもそれが違憲と審査されれば条約の国内的効力は同じく無効だ。さらに私法秩序にその規範が存在しなければ国家は、条約として合意した約束を民法として国法化することは出来ない。
日米並行協議において密かに約束され、民間に浸透したとされる規範は、民法として国法化させることはできる。我国の経済官僚はそれをさせるために、多年外務省を介しない協議を続けてきた。そして合意された内容は行政指導として国民関係に組み込まれ、いつしか私法秩序として国法化されることになる。日米並行協議の本当の狙いはそこにあると考えるのは私だけではあるまい。
しかし私は、アメリカの狙いが、アメリカの国内法を―慣習法。アメリカの法律は日本人に理解することは困難だ。各州は独自の憲法、州法を制定しているし、連邦の権限は主に8条に示された18項目で、それ以外の権限は州に帰属すると考えられている―、日本の民法典に反映させることだと考えている一人なので、そのことと日米並行協議はどう結びつくかを論じてみる。
憲法と民法
故小室直樹博士の言を拝借すると法律とは命令であり、憲法が国家を規制する命令で、民法が私達国民への命令であるとなる。近代立憲主義国家の場合は、まさしくそのような哲学で成り立っていたが、現代立憲主義国家の場合は少し役割が変わるというのが、最近の法学における議論のようだ。民法というのは、国家建国以前から存在していた社会的慣習の集大成であり、社会規範の集合だ。つまりそれは、立憲国家立国以前から存在しているので、国家といえども介入できない―国民主権を考えると、主権者国民のルールに国民が組織した国家があれこれと口をだすのはおかしいということ―とされている。私逹はそれらの規範に拘束されて、自主的に秩序を維持しているとすれば、国家に対する憲法と、国民に対する民法は、それぞれ命令対象とする集団は違うが、同じ働きをするといえる。
憲法や行政法などと対比して、民間の法を私法と呼ぶが、そのような慣習や規範を、法律的な言葉で置き換えると私法秩序という。先に私法秩序―私達のルール―には近代立憲主義国家は介入できないといったが、それを端的にいう言葉が、小さな政府ということになる。国家はなるだけ私法秩序には介入せずに軍事、警察、消防のような公共財に特化して、国民生活を守ることを期待されていた。
ところが現代立憲主義国家はさまざまな行政サービスを通じて、私法秩序に介入をしてくるようになる。当然それらはサービス受益者である国民の要請でもあるのだが、 それ以前に、なぜ私法秩序を国法として制定されなくてはならないかという問題がある。つまり私達のルールを国法として、国家の強制力を使って、国民に強制させるのか、という問題だ。
それはこういうことになる。私法秩序を裁判の基準として―裁判規範―制定することによって、司法が紊乱者を裁くことができるようになる、ということだ。私達の社会は、国家という強制力が存在しなくとも、社会的な制裁を行うことで秩序を維持してきた。村八分という仕打ちもその一つだといえる。
社会が大きくなるにつれ、私人が私人を裁く、私刑、いわゆるリンチを、国民が選んだ代表で構成されるところの国家が、国法として民法典に制定されて初めて、独占的な強制力が発揮され、その独占的な強制力によって、―国民が納得できるような―、秩序を維持できることになる。私法秩序に強制力を持たせるために国法化が必要なのである。
国家の私法秩序に対する介入の限界
国家は私達の社会のルールが機能するために、裁判規範として、民法を国法として制定すると論じたが、近代立憲主義国家と現代立憲主義国家では、制定された民法に対する介入の仕方が違う。自由権や財産権の不可侵は近代立憲主義国家の場合、立憲の歴史過程における国民側の要請であったことは公知だ。英米法では現在でも明文法ではなく、判例が裁判規範になっている。私人間と私人間の関係や規範に、いちいち国家が介入してきては私達の生活は窮屈だ。さらに裁判規範として私法秩序を国法として制定するにあたり、広く国民社会の慣習や規範になっていないことを法制化すると、私逹は慣れ親しんでいないルールを人間関係に取り入れなければいけなくなる、ということだ。主権者の要請は、そういう存在しない慣習規範を国家が、裁判規範として国法化するなということだ。
ところが現代立憲主義国家は、近代立憲主義国家の、最低限の秩序維持を役割とした夜警国家から、積極的に国民を保護する福祉国家へと変化した。と同時に国民に権利への不可侵を規定した、消極的な権利実現を役割とする国家から、国民の権利を積極的に実現する役割の国家へと変化した。このことは民法にも影響し、本来、国家と国民の間で規定されていた権利義務関係が、私人間と私人間との間でも実現されるように要請されるようになった、といえる。
つまり、本来国家が介入すべきでない、私人間と私人間の関係を規定している私法秩序を国法化した民法に、私人間の自由を拘束するような修正を加えなければならなくなった、ということだ。プライバシー権などはその典型だろう。しかしその修正は、私法秩序が国法として制定された民法との間に、ズレが生じた場合の修正でなければならない、ということになる。私人間間の関係規範や慣習が変化した場合、それを修正する法律の変更は許される、ということだ。
現代立憲主義国家と私法秩序
先に国家は私法秩序に拘束されるといったが、私人間間の慣習や規範が変化した場合は、それを国法化するという修正を国家はできる、と論じた。しかし存在しない慣習や規範を、国家は国法化することができるかという問題がある。拘束されるというのは、そこから逸脱できないということなわけだから、 当然、慣習や規範に存在しないルールを国家は国法として制定できない。違う視点で考えれば、私法秩序という国民固有の権利を実現するために現代立憲主義国家は積極的に民法を修正する必要がある。私法秩序の変化として、実現してほしいという権利を、実現するのが現代立憲主義国家の役割だからである。しかし私法秩序に拘束される国家は、私法秩序に含まれない慣習や規範を裁判規範として国法化すると、そのことによって他の私人間の権利を侵害する可能性がある。よって国家は私法秩序に存在しない慣習や規範を国法化することは出来ないとする、議論が有力となる。
さて話が核心に入るが、ある国の国民の私法秩序と、また別の国民の私法秩序は当然相違がある。慣習や規範といったものは宗教と関わりがあるからだ。世界には5大宗教を始め大小様々な宗教があり、それぞれに慣習や規範がある。よって国際社会には合意された私法秩序はまだ存在してない、といえる。少なくともそういった慣習や規範が、合意できる範囲で、国家という枠組みが形成されている、と考えられる。
とすると、ある国の私法秩序に慣れ親しんだ国民が、他国で生活やビジネスをするにあたり、自国の私法秩序では合意可能だが、他の国の私法秩序では合意できない、という事態はありうる。というか、各国でそれによって係争が絶えないのが、今のグローバル時代の国際社会だ。
日米並行協議という日米法規戦
そのグローバル時代に、自国民の権利を最大化するため、積極的に行動することを役割としている現代立憲主義国家は、国際社会で釀成されつつある国際社会の私法秩序を、少しでも自国のそれを他国へ浸透させ、自国国民の安全を確保し、活動を養護することは国民からの国家への要請だといえないだろうか。であるならば、現代立憲主義国家が国際交渉を通じて、自国の私法秩序を他国へ伸長させようとする行為は、自国国民の要請であるとともに国家に課せられた義務になる。近代立憲主義夜警国家から、現代立憲主義福祉国家に変化した国家は、必然的に他国の民法に介入することが、自国民にとって正当化される、ことになる。
日米の関係で考えればアメリカが、自国の国民が営む企業の要請で、その企業が慣れ親しんだ私法秩序で経済活動を行わせようとすることは義務となる。しかし国際交渉でそれを実現させようとした場合、以前論じたように違憲立法の問題が立ちはだかることになる。さらにこの稿で検証した私法理論からも、私法秩序に存在しない慣習規範を立法する事もできなない。
そこで我国の民法を国際条約の内容の通り修正させるための智恵が、法的に拘束力のない日米並行協議で取極めた規範を、行政指導などの方法を使って民間に浸透させ、それを根拠に私法秩序の修正ということで、それを国法化するという手法だ。
条約を署名しても議会の承認が得られなければそれは無効だ。議会が承認してもそれが違憲と審査されれば条約の国内的効力は同じく無効だ。さらに私法秩序にその規範が存在しなければ国家は、条約として合意した約束を民法として国法化することは出来ない。
日米並行協議において密かに約束され、民間に浸透したとされる規範は、民法として国法化させることはできる。我国の経済官僚はそれをさせるために、多年外務省を介しない協議を続けてきた。そして合意された内容は行政指導として国民関係に組み込まれ、いつしか私法秩序として国法化されることになる。日米並行協議の本当の狙いはそこにあると考えるのは私だけではあるまい。