自衛隊を国軍にするための準備 ―自民党案の検証

自由民主党 日本国憲法改正草案

第2章 戦争の放棄/安全保障
第9条(平和主義 ) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第9条の2(自衛軍) 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する。
2 自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

3 自衛軍は、第一項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。

4 前二項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関する事項は、法律で定める。

保守派にとっては悲願である憲法改正なのだが、国民側にはまだその準備が不足しているように思うのは私だけではないだろう。明治維新は武士によって行われ、大日本帝国を組織したのは、ほとんどが武士であった。国民側からすれば徳川武士から薩摩長州武士に替わっただけだともいえる。しかし大東亜戦争での帝国陸海軍の敗北はアメリカ軍の占領をゆるし、国際法で認められていない体制の強制的な変更によって、国民を政府のオーナーに引き上げた。良いにつけ悪いにつけ国民は軍の所有者になったわけだ。

私は自分や自分の家族を守るためならば、他人を殺めることに対して躊躇はないが、そうでもない人もいると思う。当然同じことが国家と国民にも当てはまる。国民を守るために、あるいは民族の歴史、習慣、宗教を後世に伝えるために他国国民と闘いになることを厭わない民族もいる。それは彼らにとっては正義だ。しかしそうでない民族、国民もいる。チベットなどがいい例だ。他人と争わず、傷つけず、歴史習慣を守る唯一の手段が自らを傷つけ抗議する焼身自殺だ。方法は真逆だが目的は同じといえる。

国民は民族の秩序を守り、それを後世に伝えるため国家を組織し、国境線を防衛するために国軍を持つ。国軍は自国を他国の侵略から防衛するために設立され、軍人はその目的のために他国民を殺傷することは許される。あくまでも殺傷を許されるのは他国民だ。しかし時として軍は自国民をその実力行使先にすることがある。我国でも過去、軍人が首相を暗殺したり、軍隊が政府に対して銃口を向けたことがある。軍が実力行使で政府に要求する行為をどう制御するかは、国民にとって重大な問題のはずだが、その議論がすこしおざなりになっているように感じる。

軍を国家国民とどのように関係づけるか、あるいはどのように制御するかを研究する学問領域を、civil-military relations 、政軍関係という。直訳では民軍関係となるが、意訳では政軍関係とするのが一般的だ。欧米ではこれらの知見をもとに政府と軍の関係、国民と軍の関係を制度によって統制するかを試行錯誤しているが、我国のそれは大きく遅れているのが現状だ。

明治政府要人は、西郷、伊藤、大久保も、木戸も維新を軍人として戦った経験のある、ある意味では軍人政権だったといえるので、完全なcivilian control ではなかった。政治家も軍人も気心がしれていて、政策に齟齬をきたすことがあまり表面化しなかった。しかし明治の元勲も世を去り、原敬が宰相になった大正デモクラシーの時代から、次第に軍と政府、国民との意思疎通が悪くなるのは当然の結果だろう。

経済が好調だった大正が終わり、昭和の恐慌がくると政府、軍、国民が、それぞれの利益のみを主張し始めると、明治の良好な政軍関係から次第に嫌悪な関係へと陥っていくことになる。最終的には政党政治、つまり文民統治をよしとしない軍が、政治家の暗殺、体制の変更を選挙によらない方法で要求する、クーデターへと発展する。2.26事件の場合、多くの軍人がそのロイヤリティの対象であった天皇陛下が下した、反乱軍という裁定に驚き、鎮圧された。軍が最後の最後にその統制に服したわけだ。

では自民党草案では軍は誰の統制に従うのか、ロイヤリティの対象は誰か、というと、最高指揮権者は総理大臣であり、指揮権者の総理大臣を含む軍は「国会の承認その他」の統制に服する、とある。私はこのような曖昧な文言で政軍関係を憲法で規定するのは、非常に危険であると考えている。私が「統制」という法的な強制力を含む言葉と、「ロイヤリティ」という抽象的な言葉を分けたことに、私が考える政軍関係の一つのヒントがある。次稿はそのことにふれたい。