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小和田恒悪玉論を問う ―衆 - 外務委員会 - 1号 昭和60年11月08日 その1

5月3日、憲法フォーラムで、自治基本条例に反対する市民の会会長の村田春樹さんにお会いした。その際に氏の国民新聞への記事のコピーを頂いた。内容は平成25年6月25日「小沢一郎在日説を嘆く」と平成25年12月25日の「小和田恒氏悪玉論を嗤う」と題した記事だ。両者とも刺激的な記事で、最後にこのような筆者からのメッセージがある。「小沢一郎在日説を嘆く」には「本紙発行後に民主党福山哲郎氏が帰化人と判明しましたが、本稿の趣旨は変わりません。本稿の趣旨へ科学的根拠のある反論をお待ちしております。」、「小和田恒氏悪玉論を嗤う」には、本稿に対する反論をお待ちしております。昭和60年11月8日第103回国会外務委員会の議事録を詳細にお読みの上にお願い致します。」とある。記事を読んで「村田さんらしいなぁ~」と感心したので、早速国会会議議事録会議システムで当該質疑を検索してみた。

問題の箇所は社会党土井たか子委員との質疑なのだが、中曽根首相の靖国参拝問題を引き合いに出し、日中関係についての質疑に関するところからなのだが、当初は当時の後藤利雄アジア局長が答弁をしていた。それを極東国際裁判の解釈へと誘引していく土井たか子委員の質問に、当時条約局長をされていた小和田恒氏が答弁をするところなのだが、ポツダム宣言、極東国際裁判、日本国憲法などの戦後日本の手枷足枷となった、諸法規解釈に対してぎりぎりの答弁を展開している。まず土井たか子委員はこう切り出して日航機がソ連側FIRに侵入した事件の質疑を日中関係に切り替えるところから検討しよう。

○土井委員 わかりました。それはさらに努力を積んでいただいて、ぜひとも来春の外相会談の席では、これに対して具体的に何らかの措置がはっきりできることを望んでいます。これはひとつ、努力方をさらに要請を申し上げたいと思います。 さて、ほかにも日ソ間の問題は基本的にございますけれども、きょうは特にあとの時間を靖国問題についてお尋ねを進めたいと私は思うのであります。  それでは後藤局長からお尋ねしたいと思うのですが、十月八日に後藤局長は急速、本当に急速訪中されたわけでありますけれども、どのような目的で中国にあのときいらしたのですか。

○後藤(利)政府委員 お答えいたします。  御案内のように、十月十日から外務大臣同士の第一回の定期協議が開かれるということでございました。そこで、せっかく外務大臣が行かれますので、私ども単に呉学謙、ウー・シュエチエン外 務部長との協議のほかに、できるだけ多くの要人の方にお会いいただいた方がいいということで、外交チャネルを通じていろいろと中国側にお願いしておったわけでございます。ただ、御案内のように、中国側はいろいろな御日程がありまして、その時点においてなかなか決まっておりませんでしたので、むしろぜひ今度の安倍外務大臣の訪中の意義をもう一度、鄧小平主任以下できるだけ多くの要人に外務大臣がお会いすることができて、この機会に日中関係を大局的にお話ししていただくことが非常にいいのじゃないだろうかという私どもの誠意を、東京におります私が参りまして中国側の関係者にお願いするということで、要人と外務大臣との表敬、会談の日程の最終的なお願いに伺ったということでございます。

○土井委員 局長、ちょっとそれは四角四面な切り口上でおっしゃるわけだけれども、急速いらしたのには、大変な御無理を重ねていらっしゃるはずなんです。今までの外務大臣の訪中についてこれだけ配慮して、これだけ局長自身が無理をして飛んでいかれるということはよもやございませんでした。飛んでいかれた当日は、外国の方とお会いになるお約束もあったはずであります。韓国の金泳三氏と会談されるということもキャンセルにした。しかも、航空券はなかなか手に入らない、難しいのに、無理をしてわざわざいらした。今おっしゃったような御答弁だったら、日本大使館を通じてアレンジできるのです。いつでもそのとおりやってこられている。特に、いろいろと事前の調整が必要だったのじゃないですか。

○後藤(利)政府委員 今御指摘のとおり、八日の夜、韓国の金泳三氏と私会食をさせていただきたいという日程を立てておりました。大変乱もこの会談を、会談というか夕食を楽しみにしておりまして、私、体が二つあったら両方に本当に出たいなという感じがあったわけでございます。急に参りましたのは、私としては、大使館を通じてそういう日程のアレンジができればいいなと思っておったのでございますが、なかなかできないということでございましたので、できないと言ったらおかしいのですけれども、十日に行きまして……(土井委員「おかしいですよ」と呼ぶ)いやいや、そんなことは絶対にございません。行きまして、鄧小平主任――何日の何時ということはあるいはわかるかもしれませんが、私、事務当局の責任者といたしましては、日中外相会議は初めてでございますので、外務大臣ができるだけの要人にお会いしたいという希望に万一にも沿えない場合には、甚だ私責任を感ずるわけでございます。金泳三氏にお会いできなかったのは、まことに残念でございます。  それから、九日でもよかったかなという感じはするのですが、たまたま飛行機が八日の午後にとれたというものですから、結果的には急速飛んでいったということでございます。本当にそれだけでございます。

○土井委員 大変無理な御答弁だと思うのですよ。それはだれに会っていただけるかという調整だけではなくて、大事な懸案の内容に対する調整もあったのでしょう。それは既に巷間はっきり伝えられています。中国側がただいまの靖国問題に対して非常に強い姿勢を持っている、このことに対して外務省としては対応方が要請される、この調整がありはしませんか。

○後藤(利)政府委員 八日に参りまして、九日に先方の外務部の次官、あるいは私のカウンターパートであるアジア局長と昼食などをしたことは事実でございます。その過程において、もちろん今の要人の表敬のほかに議題というものは、日中外相会談の議題は二国間で国際関係のいろいろなお話をしましょうということは既にお話ししておったわけでございますが、靖国問題について調整する等そういうような問題はございません。靖国神社問題というのは、もっと高いレベルの非常に政治的なあれでございますので、私がこれについて調整するというようなたぐいのものではないと思います。  ただ、靖国神社の問題について、昼食か何かのときに日本の公式参拝というのがあって、それは官房長官談話のラインで私がお話ししたということはございますけれども、それがいわゆる今先生の言われました調整とか、そういうことでは毛頭ございません。それはむしろ、外務大臣同士においてお話ししていただくべき筋合いのものであるというのが私の判断でございました。

○土井委員 それはそうだと思います。外務大臣から正式に言われるのが筋であろうと思います。しかしその前に、一応それに対してその席を通じて説明をされることぐらいに、この問題に対しては重要視されて行かれているのですよ。

○後藤(利)政府委員 靖国神社問題が、日本の国内あるいは関係国において今非常に関心があるということは当然でございます。私もこの問題については、小さい心を常に痛めてきておることは御理解いただきたいと思います。その意味で官房長官の談話をお話しして、外務大臣もその点については呉学謙外交部長と率直なお話をさせていただくであろう、その点はよろしく外交部長にお話をお聞きいただきたい、そういうことでございます。

○土井委員 それごらんなさい。今の御答弁を聞いていると、やはりそういう調整じゃないですか。中身についてどうぞ聞いていただきたい、そういう調整ですよ。  さて外務大臣、中国の靖国に対する抗議というものについて、これは内政干渉だというふうなことを発言する人がおるんですね。しかし、日中共同声明の六項を見たり、日中平和友好条約の一条一項を見てまいりますと、そこに言うところの内政干渉には当たらないと私は思うのですが、これは内政干渉というふうに受けとめていらっしゃいますかどうですか、外務大臣にお尋ねいたします。

○安倍国務大臣 この問題についてはいろいろと議論もあるわけですが、私と外務長官との話し合いでは、内政干渉とかそういう立場で話をしているわけではありませんで、あくまでもやはり日中関係の将来の問題、それからこれまでの日中関係のあり方、そういうものを踏まえた形で靖国問題にも触れて、特に中国側としましては、日本に中国の人民の感情をやはり十分知っていただきたい、理解していただきたい、こういう趣旨でございます。中国側が、初めからそうした内政干渉とかそういう意図でもって、あるいはそういう気持ち、立場で日本に対して注文をつけたということではもちろんありません。

○土井委員 今外務大臣としては、内政干渉とは受けとめていらっしゃらないというお立場でありますが、そうすると、内政干渉でないということになるなら、その理由は、どういうふうなところでこの抗議があるというふうに受けとめていらっしゃいますか。

○安倍国務大臣 これは、具体的な会談の内容についていろいろと申し上げることは、やはり国際間の関係でもありますから差し控えるのが妥当じゃないかと思いますが、中国側としましては、やはりああした学生の一連の動き等もあって、そういう中でとくに靖国神社の公式参拝というのが、何か一部のといいますか、中国の人たちから、国民感情から見ると、日本がまた今まで来た道から方向を変えていくのじゃないか、中国が一番心配しているいわゆる軍国主義といった方向に、こうした総理大臣の公式参拝というものを契機に道を変えていくのじゃないか、そういうおそれ、心配というものが中国側にある。そうした心配というのが学生等の動きになってもあらわれておるのだ、こういうことも言っておられたのであります。  ですから、私はそれに対して、日本のとった今回の総理大臣の公式参拝というのは、官房長官の談話にも尽くされておるし、この官房長官の談話というのは、やはり日中関係についても、日本がこれまでアジアの人たちに与えた大きな犠牲というものに対する反省は常にしていかなければならぬ、同時に、これからの平和のために日本は努力をしていく。今回の措置というものは、一般の戦 争の犠牲者に対して政府として弔意を表する、こういう形でやってきているわけで、中国側が心配しておられるような軍国主義への道を歩くとか、あるいはまた日中共同宣言に違反をするような立場で日本が何かやろうとしている、日中平和友好条約に背馳するような形で日本が何かやろうとしている、そういうものでは決してないのだ、これまでの日中間で約束し、結んだ原則、条約、基本というものはきちっと守っていきますということを、私からも詳細に説明したわけであります。

○土井委員 その外務大臣は詳細に説明をされたということも新聞記事に報道されているわけでありますけれども、日本政府の真意を説明しましても、中国側の立場というのは、A級戦犯を祭った靖国神社へ政府が公式に参拝した行為そのものが相互の信頼を裏切る、侵略戦争の被害者である中国人民の痛みというものを踏みにじるものだというふうなとらえ方があるのじゃないか、こういうことに相なるわけでありますが、この点はいかがでございますか。

○安倍国務大臣 そうした判断も、私は率直に言って中国側にはあるのじゃないか、こういうふうに思います。

○土井委員 そこでお尋ねしますけれども、中国側の理由というものが一応納得できるというものであるならば、日中間の関係を一層強固なものにしていくことのためには、納得できる内容に対して、日本としてはやはりこれにこたえるということが非常に大事な問題になってくると思うのです。日本は中国に対して侵略戦争を行い、大変多大の被害を与えたという過去の事情があるわけですけれども、この点に対して外務省としてはどういう認識を持っていらっしゃいますか。

○安倍国務大臣 過去、日本が中国あるいは中国の民衆に与えた大変大きな犠牲というものに対しては、日本としては深く反省をして、その反省の上に立って日中関係というものを進めていかなければならない、こういうふうに思っています。

○土井委員 その過去の大変な、向こうに被害を与えたということの反省とおっしゃいますが、これはやはり中国に対して日本は侵犯した、侵略をしたという事実に基づくところの被害が中国側にはあったという事実関係に相なると思われますが、いかがでございますか。

○安倍国務大臣 中国側がそういうふうに判断することは、それは日中間のこれまでのあり方からすれば、国際的にもあるいは客観的にもそれなりの意味があるのじゃないか、こういうことは日本としてもやはり十分受けとめなければならぬ、こういうふうに私は思います。

○土井委員 つまり、国際的に日本は中国に対して侵略をしたということが是認されておる、国際的それは認識である、このことを日本もはっきり認めなければならぬ、こういう関係になるわけですね。  東京裁判で「平和に対する罪」という概念が新しく出てきているわけですが、「平和に対する罪」というのは内容は一体どういうものなんですか。外務省いかがでしょう。

この質問に対し当時外務省条約局長であった小和田恒氏の答弁があるわけなのだが、それは次回にしようと思う。

少しここまでの当時の日中関係を補足しておこう。1985年8月14日に、首相の靖国参拝を中国側が突然非難をしてた。しかし15日の終戦記念日に中曽根は首相として公式に靖国神社参拝をする。戦後それまで、第43代東久邇宮稔彦王以下、第71代中曽根康弘首相の1985年4月22日までの38代12人59回の参拝には非難はなかった。1978年いわゆるA級戦犯の合祀以降も大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が、計21回参拝しているにも関わらず突然非難をしてきたのである。

その1週間前の1985年8月7日、朝日新聞が批判的に靖国参拝問題を報道すると14日突然、中国側が非難をしてきたという背景がある。その後は事あるごとにこの問題を外交の訴求にあげて来たため、中曽根康弘はこれ以降参拝を自肅している。この質疑は朝日新聞、そしてそれに呼応した中国政府の外交的な揺さぶりの渦中に行われた質疑なのである。

一方の中国側はというと、1977年に政権に復帰した鄧小平は、1978年10月に日中平和友好条約批准書交換のために訪日、日本の目覚ましい経済発展ぶりを目の当たりにする。同年の第十一期中央委員会第三回全体会議に於いて、文革の否定と改革開放が決定され、華国鋒の失脚で鄧小平は完全に政権を掌握する。翌79年には米中の国交が樹立すると、鄧小平は米国を訪問する。日米両経済大国の現状を目の当たりにした鄧小平は、より一層社会主義市場経済体制への移行を決意する。80年には趙紫陽が党主席、81年には自身が党中央軍事委員会主席、82年には胡耀邦が党総書記と完全な鄧小平体制が確立する。

鄧小平は趙紫陽、胡耀邦といった若手の人材を登用して改革開放路線を進めたのだが、そこには政権の座を追われた、ひと世代前の保守派長老たちや実力者もいた。鄧小平というカリスマのもと改革開放を推進していたが、それは副産物として民主化も釀成する。 鄧小平は経済の改革開放には肯定的であったが、民主化には否定的であった。いわゆる靖国問題が85年に起こると、この問題で中国国内の保守派の長老たちが、胡耀邦、趙紫陽の親日路線を追求し結局、胡耀邦は86年失脚することになる。

胡耀邦は83年に訪日し、中曽根首相との友好関係も良好であった。中曽根康弘は1985年8月15日の参拝を最後に、参拝を自肅したと書いたが、後年中曽根はその件に触れ、「親日派である胡耀邦が中国共産党内の批判にさらされて失脚する可能性があったからだ。それはどうしても困ることだったから」と述べている。1978年のいわゆるA級戦犯の合祀から、最初の批判までの7年間は、中国の権力闘争とその後の改革開放路線推進のためのため、日米の経済協力を必要としたため、靖国問題が外交の溯上に上がることはなかった。鄧小平の訪日時には、おそらく合祀は公になっていなかったが、胡耀邦の訪日時には報道その他で、中国側にも伝わっていたはずである。鄧小平とて7年間それを知らなかったわけではないだろう。

中国が「A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝することは、中国に対する日本の侵略戦争を正当化することであり、絶対に容認しない」という見解を表明し続けていのであれば、その主な理由は「A級戦犯合祀」であり、78年7月からの約7年間の沈黙はどう説明するのだろうか。当時の自民党政権側には中国の政治情勢の変化が靖国参拝への非難の根底にあることはわかっていたはずである。中曽根の胡耀邦擁護発言の根底にもそれがある。しかし安倍外務大臣の答弁はその政治情勢を全く説明していない。当然質問者の土井たか子には靖国問題が、日中国交回復当初からの懸案事項で、日中共同声明や日中友好条約の基本的精神のように誘導しているが、それに対しての反論を安倍外務大臣はしていない。土井たか子委員の想定誘導質問の通りの展開になり、細かな条約解釈論に導き、小和田恒当時の外務省条約局長の登場となるわけだ。

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日本国憲法の研究 ―合衆国憲法との比較 前文

これから日本国の新憲法草案を提案しよう。どうしてそう思ったかは単純だ、今の日本国憲法は近代憲法の要件を満たしていないと思われるからだ。近代における国家は主権者である国民の国家形成への強い意志によって成り立っているとする。―するとしたのはもっと奥深い部分では違うと考えているが、近代に対応するためにそう仮定することにしよう。

近代思想において国家は、たとえ国民がひとりでも、国民意志があれば形成することができるとされる。しかしそれは利己的な個人意志ではない。五箇条の御誓文で公論と示された、意志を国民主権では民意というのであって、それがなければ近代国家は存在しないのである。さらにその意志は個々人の中にある不条理で熱い志であり、それを顕現しあるいは不当な隷属の強要から擁護されなければならないと考えている。

そして近代における憲法はその国家を統治する権力を制限するために制定するものであり、国民から政治権力への手紙であり、もっと強く表現すれば命令書として機能するのもである。よって国民が必ずしも従うべきものではないという性質のものである。
統治体というのは国際的には近代国民国家が国際関係を維持するため、またはその関係が破綻した場合に起きる紛争を解決したり、戦争を遂行し条約を締結するための代表府である。同時に国内においては共同体秩序を維持発展させるために制度や法律を制定する立法府、制定された法律をもとにそれを執行する行政府、そして行政が正しい手続きで行われているかを監視したりあるいは手続きの瑕疵を判断する裁判所などの組織のことである。

しかしこれらの組織は主権者である国民の自由を拘束したり法律を不当に行使したりする可能性があるので主権者は組織に対し、してはいけないことと、積極的にしなければならないことを文書によって命令する、それが憲法の本質なのである。そういう視点をもって世界最初の憲法らしい憲法であるアメリカ合衆国憲法と戦後アメリカの占領下制定された日本国憲法を比較してみよう。

アメリカ合衆国憲法(日本語訳)
前文
われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。The Constitution o…

国際関係論で論じられる理想主義

リベラリズムほど解釈が多様にある言葉はないと思う。日本語では自由主義と訳される場合が多いのだが、昨今では自由主義とリベラリズムは対立する政治姿勢ともいえる。よって自由主義をリバタリアニズムと呼ぶのが一般的になりつつある。本稿の場合はリベラリズムを社会自由主義的な用法、ようするに国際関係論で論じられる理想主義として論じることにする。

20世紀の戦争 20世紀は戦争の世紀と呼ばれるように産業革命による技術革新が戦争を巨大化、無慈悲化させた。世界は巨大化・無慈悲化する戦争に対して、一定の規則を締結したが、その後に勃発した第一次世界大戦は大規模かつ無慈悲な消耗戦によりヨーロッパ社会に大きな衝撃を残した。

第一次世界大戦の塹壕戦や化学兵器の使用は、ただ敵を消耗させるための戦略で、それまでの戦争とは様相が大きく変化した。戦争は国家が軍に命令して、軍が名誉をかけて行う営みから、国家国民全体で行う営み全体戦争つまり総力戦へと変容した。

パリ不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)は大戦のような悲惨な戦闘を二度と繰り返さないために交戦国、非交戦国も含めて63カ国が署名した。目的は戦争の違法化、特に侵攻戦争の違法化を目指したが、最終的には侵攻戦争を非難するにとどまった。


貧困が戦争を起こす もし社会が現状で固定されるとしたら、現在比較的幸福な人はいいが、もし不幸な人はどうだろうか。それはその人の希望を奪い去ることになる。国家同士の戦争もある一面では現状に満足できない国家と、それを阻止しようとする国家の営みといえる。

第一次大戦後ヨーロッパの比較的裕福な人々の間で戦争が二度と起こらないように、家族友人の死、あるいは戦争による破産などの不幸をなくすには、どうしたら良いか考えられたのは自然なことだ。そして彼らは結論した。「貧困が戦争を起こす」。

大戦中ロシアでは革命が起こりソ連邦が誕生する。国民(ソ連に国民がいたかは定かでないが)に貧困のない平等な生活を提供する統治体の出現に、ヨーロッパのエシュタブリッシュメントは期待と不安の眼差しを向ける。
リベラリズムの誕生 フランス革命の惨劇を経験しているヨーロッパの裕福な人達は、現状を維持しながら戦争を防止する政治体制の確立を急いだ。そのような背景でリベラリズム理論が誕生することになる。その理論は金持ちはそのまま、貧乏人はもう少しお金持ちにすることだ。

日本国憲法の研究 ―合衆国憲法との比較 第1章

近代憲法は、主権者である国民の意志として、組織される政府に対する命令書なので、前文は、その意志を表現したものがふさわしい。そしてその目的を明確にする必要がある。さらにその目的のために、憲法を制定するわけなので、そういうことを頭に入れたうえで、再び前文を読むと、合衆国憲法は、

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。
目的意志がシンプルかつ明確に表現されている。これと比較して、日本国憲法における国民意志もしくは達成したい目的は、

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。に色濃く現れ、

これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
が次にくる。なぜわざわざ一切の憲法と法令と詔勅と断る必要があるのだろうか。ここにこの憲法を制定した意志があるのではないだろうか。そして最後には、

国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

目的を達成することを、宣言命令するのではなく誓ふ。さらに誓ふ対象も明記されていない。我々日本国民は、誰に対して目標を達成することを誓ふのだろうか。 これに答えを出せる憲法学者や国会議員が、我が国にはどれほどいるのだろうか。国民はそれを疑問とも考えていないのだろか。

第 1 章はその意志を具体化する、そして目的を達成するための第一歩ということだ。最重要なことを最初に申し述べているのである。アメリカ合衆国にとって最重要なことは法の支配、法による秩序であり、日本国では天皇―スメラミコトによる秩序―これをしらすという―であるということだ。大日本国憲法では、

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

と統治の根拠となる天皇が過去、現在、未来に渡つて、日本国と日本民族の秩序の源であることを示している。この場合の統治とは伊藤博文が解説するように、しらすであり現実的な権力、うしはくと厳密に分けなければならないのである。

合衆国憲法は合衆国の秩序は法によって護られるゆえ、第 1 章では立法府についての規定が列記される。一方、日本国憲法では天皇についての条項が…

年次改革要望書

サイトで偶然みつけた原文の、いわゆる「年次改革要望書」だが、TPPと比較してみても面白い。アメリカの戦略なのか執念なのか、はたまた信仰なのか、1994年からもう20年くらいやってる市場開放交渉だ。我国政府も辛抱強くそれに対応していることがわかる。

TPPとはなにか ―GATT・WTO体制から考えるTPP

TPPというのはWTOが認めるGATT体制の例外で、自由貿易協定や関税同盟などの地域貿易協定のことだ。そのことについての議論が国会の場でもあまりされていないように思う。おがた林太郎元衆議院議員のブログそもそもFTAとはというエントリーがあり、自由貿易協定の根拠はガット24条だということを知らない議員が多いと指摘している。

経済産業省の説明では自由貿易協定(FTA: Free Trade Agreement)と関税同盟(Customs Union)を総称して地域貿易協定としている(RTA: Regional Trade Agreement)が、これらはGATT・WTO体制の例外として認められている協定で、それを規定しているのがガット24条という事になる。経済産業省のHPに関税及び貿易に関する一般協定、GATTの翻訳が掲載されている。
この協定の適用上、
(a) 関税同盟とは、次のことのために単一の関税地域をもつて二以上の関税地域に替えるものをいう。
(i) 関税その他の制限的通商規則(第十一条、第十二条、第十三条、第十四条、第十五条及び第二十 条の規定に基いて認められるもので必要とされるものを除く。)を同盟の構成地域間の実質上のすべての貿易について、又は少くともそれらの地域の原産の産品 の実質上のすべての貿易について、廃止すること。
(ii) 9の規定に従うことを条件として、同盟の各構成国が、実質的に同一の関税その他の通商規則をその同盟に含まれない地域の貿易に適用すること。
(b) 自由貿易地域とは、関税その他の制限的通商規則(第十一条、第十二条、第十三条、第十四条、第十五条 及び第二十条の規定に基いて認められるもので必要とされるものを除く。)がその構成地域の原産の産品の構成地域間における実質上のすべての貿易について廃 止されている二以上の関税地域の集団をいう。 TPPも含む地域貿易協定の根拠は24条にある。つまりTPPにも最恵国待遇が適用されるということだ。一応経産省のHPから最恵国待遇のPDFにリンクを張る。

WTOはその前進であるGATT(General Agreement on Tariffs and Trade) 関税及び貿易に関する一般協定が機関に昇格したものだが、実は国際通貨基金、世界銀行と並びブレトン・ウッズ体制の枠組みとして発足する…

TPPを締結できるか ―日本国憲法から考える

日本国憲法はその制定過程に疑義があるが、陛下の御名御璽のもと、施行されたのであるから、現在の政府はそれを遵守しなければいけないことは当然だ。しかし今回TPPについての議論を憲法の論点から整理をしながら思うことは、憲法を国会議員が全く意識していないし、ましてや遵守など微塵もされていないことに愕然とする。条文は、
第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 つまり、政府関係者は尊重擁護する義務があるのだが、自らの権限範囲つまり既得権擁護の議論にしか終始していないことには悲しみを覚える。

まずTPPなどの多国間協定は名は協定だが国家間の約束であるから、条約法に関するウィーン条約で定義される「条約」である。
第二条 用語
1 この条約の適用上、
(a) 「条約」とは、国の間において文書の形式により締結され、国際法によつて規律される国際的な合意(単一の文書によるものであるか関連する二以上の文書によるものであるかを問わず、また、名称のいかんを問わない。)をいう。 さらに関税などの通商に関わる条約を通商条約といい、現在はWTO・GATTで規定されている。日本国憲法では、条約などの外交交渉は、内閣の専権事項である。
第七十三条 
三  条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。 しかし、内閣は事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とするとあるように、締結した条約の批准は国会の権限になる。国会が批准しなければ国内的な効力は発生しない。

日本国政府は世界貿易機関を設立するマラケシュ協定を締結批准しWTOの構成国である。これは憲法の九十八条第2項の規定により国内法を改正して対処しなければならない。
第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2  日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。 しかし憲法の条規に反する如何なる法律、命令、詔勅、及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しないとあるように、もし内閣が事後承認を要求した場合、締結した条約は国際的な効力を発生させるとされるのだが、国内的…

小和田恒悪玉論を問う ―衆 - 外務委員会 - 1号 昭和60年11月08日 その2

引き続き、村田春樹さんが國民新聞に書いた記事「小和田恒悪玉論を問う」への激励投稿を続けたいと思う。さて国会会議議事検索システムで昭和60年11月8日衆議院外務委員会の土井たか子委員の質問に対する答弁を検証しよう。

北朝鮮は日本の脅威ではない

北朝鮮の核開発問題は、日本にいろいろな教訓と示唆を与えてくれる。現在日本は、米韓と共に北朝鮮と対峙しているが、日本は、北朝鮮となぜ敵対しているのか、本当の敵は北朝鮮なのかという根本的な命題は、マスコミはじめ識者でも語られないままだ。今回はその辺を整理しよう。


北朝鮮問題の歴史的経緯 朝鮮民主主義人民共和国建国 1910年8月29日、大韓帝国は、日韓併合条約を専制君主である皇帝純宗が裁可することで、大日本帝国との合邦国となった。1945年4月12日、米国は、大日本帝国敗戦後の朝鮮半島統治に関して38度線での分割統治を提案する。1948年9月9日朝鮮民主主義人民共和国の成立は、その年の8月15日大韓民国の成立とともに、朝鮮半島における米ソの対立をより明確にすることになった。

共産主義による世界統治の実現のため、1950年6月ソ連及び、1949年に建国した中華人民共和国の支援を受けて、38度線を越境し大韓民国に進攻戦争を開始して朝鮮戦争が勃発する。大韓民国に駐留していた米軍を中心に国連軍―正式な手続きを経ていないので実質は国連派遣軍若しくは多国籍軍、が組織され、これを迎撃することになる。



朝鮮戦争 1950年6月25日宣戦布告なしに38度線で北朝鮮ソ連中国連合軍の砲撃が開始され、10万を超える兵力が38度線の越境を開始する。当時の韓国軍は兵力約11万人で装備は脆弱であった。さらに、北朝鮮のスパイ掃討戦や軍内部のスパイ粛清で士気は疲弊していた。米国及び国連は動揺するが、6月27日には国連安保理で北朝鮮を侵略者と認定して、その行動を非難する。さらに軍事行動の停止と軍の撤退を求める「国際連合安全保障理事会決議82」を賛成9反対0:棄権1の全会一致で採択した―ソ連は欠席。
韓国軍の崩壊と国連軍の敗走 韓国の李承晩大統領は、6月27日南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人を裁判なしで虐殺した―保導連盟事件。同時に、ソウルを放棄して水原に遷都した。このとき漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した―漢江人道橋爆破事件。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、韓国軍の士気がさらに下がることになる。

国連軍を指揮した、マシュー・リッジウェイ将軍は、退却する韓国軍が放棄した装備は、数個師団だったと述べ…

農協は必要か ―農業保護政策は農家保護ではなく、農林水産省OBとJA職員の保護にすぎない

この冬、北海道にずいぶん出張したのだが、その時聞いた話題を提供しようと思う。

通州事件の体験記 ―気の弱い人は讀まないでください

通州事件は 、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民に対する虐殺事件である。その体験記がある。讀むのも恐ろしい体験が綴られているのだが、歴史的事実を知るには貴重な記録であるので本誌の読者にも紹介する。あまりも惨たらしい体験記なので気の弱い人は讀まない方がいいと思ふ。
日本人皆殺しの地獄絵 私は大分の山の奥に産まれたんです。すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に『Sさん私のお嫁さんにならないか』と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、『いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。』と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。そのときは全く驚きました。冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあっ…