22世紀は日本の時代

昨今の日本人は自信を失ってしまった。それは思想世界の混乱に由来していると思う。戦後教育は過酷な啓蒙主義を国民に強制したが、それを受け入れてしまっていることも事実だ。啓蒙主義、それ自体を批判してもあまり意味がないのである。それはソクラテスから今日までのヨーロッパにおける葛藤を眺望してこそ見えてくる世界なのである。

ソクラテスの全否定

ソクラテスは面白い人で、その人生をかけていっさいを否定するのである。それもだめ、あれもだめ、しかしこれもだめなのである。普通何かを肯定するために、その反対を否定するものなのだが、ソクラテスの場合は全部だめなのである。では何を否定したのか。プラトンはその師ソクラテスの否定に基づきイデアを創るがそのイデアこそソクラテスが否定した全てのものの対極にあるものなのである。

アリストテレスはその師プラトンの「イデア論」を「異邦人の論理」とやや否定的であったが、結局「可能態」と「純粋形相」という、プラトンの「自然」と「イデア(超自然)」のような回帰的な2元論を言うことになる。可能態というのはヒュレー(質料)の本質はエイドス(形相)であり、それは変化可能なもの、即ち「可能態」としたのである。そのもう変化できない「可能態」を「純粋形相(神)」としたのであり、プラトンの「イデア(超自然)」とアリストテレスの「純粋形相」はソクラテスの否定から導き出されているのである。


何に回帰?

先にアリストテレスは「回帰的に2元論云々」と書いたが、どこに回帰したのだろうか?それはソクラテスが否定した、ソクラテス以前のギリシャ世界の信仰―思想ともいえる、即ちギリシャ神話の世界なのである。それは自然とは「成る、生る」もので「ある」ものではないという考えであり、生成化育の原理が働く世界観である。アリストテレスは師の自然、超自然という対比に可能態という「変化形成」という「生って成る」思想を取り入れた。しかし最終的には可能態と純粋形相(神)という2元論的に帰結したのである。この思想が後にキリスト教へ移殖されることになる。

西洋思想世界の葛藤

キリスト教にプラトン思想を持ち込んだのがアウグスティヌスである。コンスタンティヌスによってキリスト教が国教となり、広く帝国内に布教するためアウグスティヌスの「新プラントン主義」をキリスト教教会が利用したのである。であるからイエスの救いの行状とキリスト教の教義とは何も関係ないとも言える。そしてその間にはアリストテレス的な回帰であるスコラ学が発展し、またプラトン回帰がありと、キリスト教世界にも古典回帰が繰り返されるのであるが、いずれもソクラテス以前への回帰はないのである。―アブラハムの宗教は多神教を容認しない―

しかしそれらの殻を破ったのがニーチェであり、ハイデッカーなのである。ニーチェはクリスチャニズムとその基礎をなす、ソクラテス以後の思想へ別れを告げる。「神は死んだ」といわれるのはキリスト教的絶対神へのモノクロームな信仰を導く形而上学的なものへの死刑宣告であり、いわゆる日本人が言う神様のような、ソクラテス以前の神々の世界の否定ではないのである。さらにそこからハイデッカーはその形而上学が論証した存在論の破壊を試みている。

日本人が日本を否定している

これら1千年以上の積み重ねの成果が明治維新以後、津波のように我が国の思想界に流入してくることになるのである。訳語の混乱や儒学、国学との対比など明治、大正の思想家、哲学者が混乱困惑した労苦が偲ばれる。そのなか戦前の国粋主義思想の中、その批判として丸山真男は本居宣長に日本的な、そしてソクラテス以前のギリシャ哲学にある「成る、生る」思想を発見する。

古事記などの我が国の古典とギリシャ神話に共通する「成る、生る」思想を啓蒙主義者の丸山が見出したのは、共産主義を生み出したマルクスが資本論で資本の形成過程をきわめて正確に考察したのと同様に象徴的なことだ。しかしそれを発見した丸山も啓蒙主義者であったように、混乱は今日にも継続しているのである。カントは啓蒙主義に触発されはしたが、プロテスタントである彼は神を否定してはいない。理性的である前提に神が存在しているのである。

カントが準備してニーチェが切った神はキリスト教哲学的な神であり、信仰上の神とは違うのである。しかし我が国ではその辺の混乱が今日、啓蒙主義=理性的=進歩的=科学的=神否定と、いわゆる保守と対極のものになっているのである。戦後の日本人が日本を否定するゆえんなのである。

ポスト近代は日本に回帰している

この混乱は共産主義の終焉と市場主義への過度の期待として表面化し、近年、市場への混乱となって現れたと見ている。つまり今日の状況は、結果「そうする」という結果平等が滅び去り、「そうなる」という機会平等が行き過ぎてしまった。しかしこの両者を牽引した思想は「ある」という自然と超自然(神)の2元論的世界観で、自然はコントロール可能であるというプラトン主義である。市場原理主義にも同様な思想がいまだある。

人類に悪意があるうちはその悪意を人類が規制しなければならないが、ポスト近代においては自然に任せ「なる」に回帰する必要がある。そうしてそこにはおのずと見えてくる未来がある。それを建国以来国是にしているのが日本人であり、思想的にはポスト近代は「日本的」でなければならないそのことを我々日本人はもっと自覚しなければならない。

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