日本国憲法の研究 ―日本国憲法制定過程のおさらい

憲法改正に向けた一連の動きをおさらいしておこう。

昭和20年
10月4日 マッカーサーは自由の司令を出すと共に、近衛元首相に憲法改正に向けた示唆を与えた。近衞は元京大教授の佐々木惣一らと内大臣府御用掛として調査を開始した
10月11日 幣原新首相と会談し憲法の自由主義化に触れた
10月25日 憲法問題調査委員会が設置された
11月22日 近衛は「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」を天皇に奉答した
11月24日 佐々木惣一もまた独自に「帝国憲法改正ノ必要」(日付は11月23日)を奉答した
12月16日 近衛元首相が服毒自殺を遂げる
米英ソの3カ国外相会談で極東委員会(FEC)の設置が決定した
12月26日 憲法研究会の「憲法草案要綱」が発表された
昭和21年
1月 7日 米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)は「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)を承認し、マッカーサーに「情報」として伝え、憲法改正についての示唆を行った。2月26日以降は極東委員会が活動を開始し、憲法改正に関するGHQの権限が制約されることになった
1月11日 民政局のラウエルは憲法研究会の憲法草案要綱が「民主主義的で賛成できる」とする所見をだした
2月 1日 憲法問題調査委員会の試案が毎日新聞にスクープされ「現状維持的なものにすぎない」と批判をうける。GHQ民政局ホイットニー局長は2月26日以前ならGHQの憲法改正に対する権限に制限はないとし起草作業を開始した
2月3日 いわゆるマッカーサーの3原則がホイットニー民生局長に示された
2月4日 GHQ民政局内に起草作業班が設置されマッカーサー草案の起草作業を開始した
2月8日 松本国務大臣より憲法問題調査委員会の、「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」等がGHQに提出された
2月13日 ホイットニーから松本国務大臣、吉田茂外務大臣らに対し、さきに提出された要綱を拒否することが伝えられ、その場で、GHQ草案手渡された
2月22日 日本政府はGHQ草案に沿う方針を閣議で了承し、法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって日本政府案の作成に着手した
3月2日 試案(3月2日案)ができ上がった
3月5日 3月2日案の確定案作成のため民政局員と佐藤との間で徹夜の協議に入り、午後、すべての作業を終了した
3月6日 「憲法改正草案要綱として発表した
4月17日 の後、ひらがな口語体での条文化が進められ、「憲法改正草案」として公表された
11月3日 「日本国憲法」公布

本題に戻るが、他にも多くの憲法改正案があったにもかかわらず憲法草案要綱がGHQの目に止まり、影響を持ったのかは想像に難くない。その時点で発表されていた案が、現状維持的なものと、極めて革新的なものの両極端だったためである。

軍事補佐官ボナーフェラーズの存在や9月27日の昭和天皇との会見でのマッカーサーの昭和天皇への評価が一変したことこと、また秘書官から、「もしも天皇が、戦争犯罪人のかどで、裁判にかけられれば、統治機構は崩壊し、全国的な反乱が避けられないだろう」という進言を受けていたマッカーサーは日本の國體の存続を前提として考えていた。

よって天皇制廃止の過激な憲法案は排除しようと考えていたことは間違い無いだろう。勿論現状維持的な憲法案は論外だったと推測できる。憲法改正草案は根本の原則の最初に国民主権が宣言され、三項目に天皇ハ国民ノ委任ニヨリ専ラ国家的儀礼ヲ司ル、と日本国憲法にある象徴天皇の思想も見受けられる。

極東委員会の権限が強化される、2月26日までに憲法の改正作業を完了したいGHQが、強硬に日本政府へ圧力をかけることになる。GHQはソ連が入った極東委員会の影響を排除するするため急いだのか、はたまた日本の改造を自らの手で行いたかったということなのかはわからない。