情熱的な非寛容者たち ―キリスト教の歴史

宗教と言うとキリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ヒンドゥー教などが浮かぶであろう。戦後の日本人は誇りと共に宗教心や宗教観も喪失してしまい、宗教と言うと多くは新興カルトしか頭に浮かばないであろう。オウム真理教は地下鉄サリン事件などいくつかの殺人事件を命令、実行したとして現在松本被告の死刑は確定しているが、過去キリスト教にそれに比べれば、いささか不謹慎の誹りを被害者ご遺族に受けるであろうが、規模もその残虐さも桁違いに違う。

ローマ帝国の国教となったカトリック教会は徐々にその力を増し、ついにいわゆる「カノッサの屈辱」以後はローマ皇帝を越える権力を持つに至る。12世紀にはいよいよ異端審問が開始され、いわゆる「魔女狩り」も始まる。十字軍の遠征も神の名の下に行われた大略奪と大虐殺であり、ポルトガル、スペインの大航海時代に行われた、宣教師による南米の文明抹殺は歴史にその残虐性をとどめることとなる。カトリック教会による魔女狩りはヨーロッパでは1700年代まで続いている。

トルデシリャス条約によって世界を2分したのはスペインとポルトガルだ。現在南米がほとんどスペイン語圏であるのも拘わらず、ブラジルのみポルトガル語であるのは下図のようにたまたまブラジル付近が、ポルトガル勢力圈にたまたまなったことに由来する。

またブラジルにいわゆる黒人が多いのはコーヒー豆を栽培するためにブラジルにはアフリカから多くの奴隷を運んできたからなのである。蛇足になるが現在オリンピック等でアメリカのアフロアメリカンが活躍しているのは、この時期に白人は、足の速いもの同士、歌の上手なもの同士など結婚させ(実は違うが表現が見つからず“結婚”とした)現在に至るのがアメリカアフロアメリカンである。

この11世紀から18世紀くらいまででいったい何人の人間が異端とされ、魔女とされ、また異教徒あるからとされ、処刑、虐殺、粛清されたのだろうか。数億とも数十億とも言われている。これらはローマ教皇の意を受け、神の名の下、宣教師達が行った史上最悪の蛮行である。21世紀が始まろうとする2000年にローマ法王はこれらのことについて謝罪を行ったが果たしてそれは許されるのあろうか。


スペイン、ポルトガルの宣教師達は征服すると、敵の王を虐殺せず裁判をする。裁判官は宣教師達がなり、まず通常法による有罪判決をだし、そして火刑を宣告するのである。通常法で死刑として、火刑により異端審問や魔女裁判と同様にカトリックの最高刑で処罰するのである。異教徒であれば火あぶりは当たり前と何百万人を焼き殺し、降伏者はすぐに処刑せず、まず裁判所を設置して、征服側が裁判官となり、いい加減な罪を適当になすりつけ、火刑がないから絞首刑に処す。500年前の白人カトリックのやり方は、今から60有余年前に我国がされたこととまったく変わっていない。

キリスト教はその草創期、大変な迫害にあっている。あの暴君ネロによってペテロとパオロが殉教したとされ、その後デキウス帝に始まった組織的な迫害はデオクレティアーヌス帝の時ピークを迎える。キリスト教徒をライオンに喰わせたという話もこの頃である。この迫害は312年コンスタンチーヌスがローマを占領して、正式にキリスト教を公認するまで続く。

しかしまだ敬虔なユダヤ教の一宗派として認められたにすぎず、ローマの国教となるまではこの後80年、デオドシウス1世392年までかかる。教皇の権威と皇帝の権力とが結びついた瞬間である。この誕生から400年にわたる殉難時、その教勢が伸びたのはキリスト教会がローマ社会において、貧困、失業、病気、投獄などに対して救いを与えたからに他ならない。

この後は外からの迫害は終息するが、内なる脅威が勃興することになる。教会の統一論争である。初期のキリスト教はユダヤ教との違いを異邦人に説明する必要から、グノーシス主義が採用された。ギリシャ哲学的な手法で改宗した人々を教育した。しかしギリシャ的キリスト教は正統キリスト教徒にとってみれば妥協的宗派と言ってもよい。

そこでギリシャ諸宗教徒、ギリシャ的キリスト教徒、ユダヤ教徒から正統キリスト教の立場を弁証した学者たち、いわゆるアポロジストの活動が始まる。このころ多くのアポロジストとがギリシャ語ではなくラテン語で文筆活動をしたのが、聖書がラテン語である所以でもある。この正統キリスト教の信仰を守るために書かれたのが、現在の「使途信条」、「ローマの信条」である。

同時にギリシャ哲学との綜合もアレクサンドリア学派によって試みられ、プラトンは不完全ながらも神の本質について真理を語っていると言う初期のキリスト教教義学が発生している。そしてキリスト教が公認される前後、アリオス論争が勃発する。アリオス論争を終息させる必要からニカイヤ総会議が収集され、アリオス派は追放される。

この後もたびたび教義の統一を測る総会議が招集され、会議で審判され異端とされた教義派はことごとく弾圧をされる。こうして皇帝は教会の権威を、教皇は皇帝の権力をお互い巧みに利用し、暗黒の中世期を迎えることになる。

中世期のキリスト教会は頽廃を極め、850年頃に創られたとされる「偽イシドルス教例集」がある。この偽文書は聖職者は神と人との仲介者であって、教皇権は皇帝権を超えるものであるということを言っているのであるが、教会の権威を上げるためには嘘をも辞さないと言うのは精神の頽廃以外の何者でもない。

10世紀には教皇庁内では娼婦政治が横行し、姦計で廃位した教皇は50人を下らない。11世紀には教会が東西に分裂し、いっそう教義学論争がさかんとなる。11世紀末第1回十字軍が組織され回教徒に占領されている聖地エレサレムを奪回するが、純粋な動機から遠征したのは計8回のうちこの第1回目くらいで、後は金品の略奪目当ての盗賊遠征軍となってしまう。

迫害は恒常的となり、大きなものものでも、ワルドー派、カタリ派、アルビ派への迫害がある。特に前二者は皇帝の命による迫害であるが、アルビ派の迫害はキリストの名においてキリスト教徒による、キリスト教徒への大殺戮であることを記憶にとどめておいてほしい。また魔女裁判も頻繁に行われ、全くの冤罪で何万人の命を奪ったのであろうか。この中世期教皇権は神と人との仲介者として、また聖職者はラテン語による聖書を判読できる聖人としてその権威の絶頂を迎える。

しかしルネサンスによる古典回帰運動は勃興しつつあった市民社会と同様、神中心否、神の名を語った、教皇中心主義から人間中心主義へと変化し始める。さらに科学の発展による神秘主義の否定や、印刷技術の発達による聖書の翻訳本の普及などそれまで教皇の権威を支えていたものが崩れ始める。ここに宗教改革が実現する土壌が醸成されるのである。

1517年10月31日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城門に免罪符に反対する95箇条の抗議文を掲示するところから宗教改革が始まることになる。ルターが信仰へ傾倒するきっかけは救済であった。人は如何に救われるか、救うことができるか。ルターは学問の道を捨て修道僧となる。いわゆる福音主義であるが、ルターのそれは極めて人文的には矛盾をはらむ。つまり論理的でないということである。

ルターの説いた教えは「罪人にして義人」。つまり人は人を裁き得ないということだ。ルターはローマ教皇の権威を、激しく否定(教皇無謬説の否定)することで多くの支持を得ることになる。しかしその論理的、合理的でない福音主義は、他の改革者ツウィングリやカルバンと一線を課すことになる。ルターの改革は瞬く間にヨーロッパに広がり、多くのルター派教会ができることになるが、農民戦争への彼の態度がその求心力を弱めることになる。

農民戦争とは1524年―1525年に起こった農民の蜂起であるが、ルターはこの戦争について二王国説の立場から農民側を断罪する。そしてこの蜂起への諸侯の弾圧で15万人が粛清されている。ルターはこの件で民衆の支持を失うことになる。ルターは「悲劇で始まり、喜劇で終わる宗教改革」と揶揄されることになる。

ルター派諸教会とカトリック諸教会は激しく対立し、カトリック諸教会によりカトリック派を非難することを禁じる法律ができると、ルター派諸教会は「抗議書」を出す。これがプロテスタント(抗議者達)の由来である。ルターのあまりにも人文主義的には矛盾をはらんだ教義だったが、その後カルヴァン等によって論理性を帯びることになる。

このカルヴァン派プロテスタントの敬虔主義が勃興しつつあった資本主義とのかかわりを論考したのがマックス・ウェーバーである。またこの戒律的に非常に厳しいカルヴァン派プロテスタントはその後、啓蒙主義時代に科学や近代思想とも折り合いをつけ、現代社会や経済に影響しているのである。

近代欧州思想史はキリスト教と啓蒙主義を如何に折り合わせるかの変遷とも言える。ルターやカルヴァン等は絶対神の存在が自己の外にある意味において宗教的とも言える。啓蒙期のキリスト教は自己が神を規定する。英国でハーバードが理神論を提唱するが、理神論は神を肯定はするが人知による神の規定、すなわち人間が認識する神ということでは、古典的キリスト教から考えれば無神論となる。そしてその理神論の発展系がベーコン、ホッブス、ロックなどであるが、ヒュームはそれらに一つの結論を与えている。

仏国ではナントの勅令以後拡大した中産富裕層だがルイ14世が勅令を撤廃して、いわゆるユグノーの迫害が起こり市民階層が崩壊する。(プロテスタントと資本主義の関係はマックス・ウエバーの論考)多くの貧困層と一部の土地所有者(貴族)との格差は著しく増大する。

この時期(18世紀)英国に比べて仏国は後進国となる。この社会環境の中に英国から啓蒙主義が輸入される。当然ルイ14世の王権を庇護するカトリック教会の否定、そして教皇権、神への疑問は、英国のそれとは比較にならないほどラジカルになるのは必然である。そのラジカリズムの反動として、ルソーのロマンチシズムがある。

しかし両者は王権を庇護しているカトリック教会から観れば、同じ啓蒙主義的合理主義であることには変わりはない。そしてこの啓蒙的合理主義が政治と結びつき、後の米国の独立戦争、フランス革命へ多大な影響を及ぼすことになるのは周知のとおりである。

独国ではやや遅れて英国啓蒙主義が輸入されが、ゲーテ、カント、ニーチェと近代思想史、哲学に圧倒的影響を及ぼした巨人を輩出することになる。プロテスタント的アプローチでカトリック的神権、教皇権などを否定するがそれぞれ信仰的自己と啓蒙主義的思考の狭間でその論考は揺れ動くことになる。ニーチェに至り「神は死んだ」と宣言する。

ニーチェの少し前、キルケゴールの実存主義、マルクス、エンゲルスの唯物論などは20世紀の人類に多大な災禍を与えることになる。しかしニーチェは神を否定したがゆえに「超人」という人にして神、神にして人である対象物を創造せざるをえなっかたことはニーチェにしても逃れられない、キリスト教の呪縛なのか。またマルクスもしかりである。

ここでキリスト教の分裂後の東方教会を見てみたいと想ふ。ビザンティン文化を創出した東方教会はコンスタンティノーブル、エレサレム、など中近東、アフリカ北部、バルカン半島の教会である。その中心コンスタンチノーブルがオスマン・トルコに占領されるとその中心はロシアに移ることになる。

幸いにして東方教会はローマ・カトリック教会のような様々な論争や宗教改革などの動きが起こらず20世紀前半を向かえ、啓蒙主義や唯物論との折り合いの場を持たず来たために一気に西欧啓蒙主義、唯物論が入り込み旧態依然とした東方教会は革命と言う嵐により消滅することになる。

東方教会のそれはロシア的正確をおび、ある次元でアジア的、仏教的(チベット仏教)でもある。しかしそのような神秘性や深遠性は西方カトリックの法的性格とは相容れないのもである。

この辺でキリスト教の歴史を振り返ることを終わりにするが、最後に19世紀初頭英国でキリスト教社会主義運動がメソジスト運動のさなか起こっている。この運動はマルクスが1848年「共産党宣言」を発表する前に勃興している。この運動は独国などを経由して米国に渡り、19世紀末、日本に渡ってくるのである。日本の社会主義運動はキリスト教徒によって始まることは興味深い。キリスト教の歴史を振り返り欧州の人々の苦悩を垣間見ることができた。彼等が近代を確立したのは絶対でモノクロな神(唯一絶対神)からの逃避なのである。

神の御名において一体何人のキリスト教徒、異教徒が殺戮されたのだろうか。それは神の命であろうか?イエスの教えであろうか?答えは否である。神も救世主イエスもそのようなことは一言も言ってないし、伝えてない。すべてローマ皇帝の権力と癒着したカトリック教皇とその司祭たちの仕業である。キリスト教徒達の信仰心を利用し、裁き、虐殺を繰り返した教皇と司祭そしてその組織、カトリック教会の罪は深い。自らの栄達や利益のため神と救世主イエスを利用した罪は欧州を覆いつくしている。

本稿を書いていて一つ気づいたことがある。ルターだ。世界史では「宗教改革」をはじめた人となっているが、その後を見てみるとルター派は少ない。ルターはかカトリック教会の権威に戦いを挑みその後の近代社会の造成に多大な影響を及ぼすことになる。

しかしその後に現れたカルバンと違い、人文に妥協することはなかった。神(唯一絶対神)、救世主イエス、そしてその言葉である聖書にまっすぐなゆえ、農民戦争に対する態度は、神の世界を乱す反乱者とした。ルターはあらゆる人文的論理を超えて神とその伝承者イエスを信仰した。人文的なあらゆる論理より神の声である聖書を優先したのである。その姿勢はあまりにも人文的なものを廃したため、神からの離脱を図る人類の支持を得ることはできなかったのではないか。

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