日本人の自由の起源 ―東國武人の重んじたるもの二つあり、自由と名誉と是なり

女性の自由

僕は予てからひとつの疑問があった。それは女性の多くが女性同士では飲食をきっちり割り勘としたり、おみやげを貰ったりしたとき、きつちりとお返しをしたりする「義理堅さ」がどこから来るのかと云う疑問だ。

しかし昨今それが日本人の「自由」の歴史―「大宝律令」から「明六雑誌」まで日本人の「自由」の歴史―「大宝律令」から「明六雑誌」までを読んで氷解したのである。それは女性の方が男性より「自由」に関する感覚が鋭敏だということだ。

"日本人の自由"の鎌倉武士の自由に関する考察で、著者の小堀氏は原勝郎の「日本中世史」からの引用として「東國武人の重んじたるもの二つあり、自由と名誉と是なり」、「ここにその自由と云ふも、後世の所謂政治上の自由にあらず…、東國武人の浴するところは、…社会上の自由なり。人事の自由なり。私生活の自由なり。精神の自由なりき」と斷言している。

その例証として「宇治拾遺物語」から「伯の母」という逸話を紹介している。内容は平維幹という東國武人が京でみそめた姫を「この人を妻にせばやと焦り揉み(いりもみ)思ひければ」と乳母共々誘拐してしまう。しかし乳母は姫の京の実家に手紙をよこしたことで、姫は元気に暮らしていることはわかつたがなにぶん京と東國ではどうにもならない。

その後、姫は二人の娘を産んで若くしてこの世を去る。後年その姫の妹が国守夫人として常陸の国に赴任することになる。妹はこの憐れな姉の娘を任地でなにかと保護しようと赴任するむねを連絡する。赴任すると姪二人は国守夫人の叔母の館に參上する。二人の姪は粗野な田舎育ちではないかという叔母の予想に反して雅な娘に成長していた。

さらに之亦予想に反して姪は国守夫人の叔母を頼りにする素振りを見ぜず、その後は一度も会ひに来ることはなかつた。叔母は夫の国守の思はくに対しても恥ずかしく思つた。任期も終えたので京に帰ることになり、姪にその旨を連絡すると早速二人は別れの挨拶にやつてきた。

この時代(1028年~1037年)国守に赴任するとかなりの利権があつたので、赴任中に一財産作れるのが慣わしであつた。二人の姪が持参した餞別はその不正蓄財を遥かに上回るものであつた。京都の住人にはこのような東國の富と力、そして気風が、何か得体のしれない恐ろしいものと映つたと云ふ。

この話の中に現れる東國武人の重んじる気風が「自由と名誉」であり、それは後世の政治制度上の自由ではなく、社会的自由、人事の自由、私生活の自由、そして精神の自由であつた。

しかしその自由に対しても束縛する力もある。それが「恩義」である。「恩義」に報いることは武人の最高の規範であつて「名誉」の根拠でもある。恩はいかなる人から受けたものであるにせよ、それを重んじ、それに相応に報ひなければならないのである。

つまり恩を多く蒙ると云うことはそれだけ自由の範囲が狭まるということ、借りを作る束縛状態になるので、恩を蒙つた場合には早くそれに報いると同時に、なるべく自由を保有するために恩を蒙ることをできるだけ控へることが東國武人の行動規範であつたのである。

そしてさらにその規範を実現するために必要不可欠なのが経済的自立である。東國武人が京の国守―權力―に阿ることなしに自由を確立できたのは、かれらに頼らずとも生活ができ、時には餞別を充分に与えることが出来るだけの経済的自立が必要条件であつた。

東國武人の自由と恩の関係を知るにあたり、冒頭掲示した疑問が氷解したのである。つまり女性がなぜきつちりと割り勘にするのか、貰ひ物はすぐお礼をするのか、それは自由の領域を少しでも確保したいと云ふ本能からなのではないか。

商人と自由 

江戸期の知識人、鈴木正三は「商人なくして世界の自由なるべからず」と看破した。この「なる」は「成る」であり、小堀桂一郎の解釈を引けば、「世界の自由を成立せしめているのは、商人の一途な商行為である」となる。

日本では「自由」といふ言葉は日本書紀に「威福自由(いきほひほしきまま)」、「権勢自由(いきほひほしきまま)」といふ記述があり、批難否定的概念として用ゐられてゐた。

この「自由(ほしきまま)」の用法は津田左右吉の「自由といふ語の用例」によると、「後漢書」に「百事自由」、「縦舎自由」を「魏志」に「賞罰自由」があるといふ。日本書紀の成立が720年であるので、日本では「自由」といふ字句を「勝手気ままにするまうこと」と解釈していたことがうかがえる。

下がって平安中期、世の秩序を揺るがす大事件があつた、平将門の叛亂である。将門はまさしく「自由(ほしきまま)」にふるまひ、挙句の果てに新皇を名告のりにいたり、成敗されることに成る。将門の叛亂はその後の武士階級にある示唆を与える。

それは社会的自由、精神的自由を主張、行動することは習俗、伝統からはみ出ることになつても民意は付いてくるが、新皇を名告のるような伝統秩序(自然法)の領分に立ち入るとき、神明の加護が消え、成敗を受けるということである。これを天理、天道、道理という。

平安末期の武士階級の気風を原勝郎の辞を引けば、「成るべく恩を受くること少なからんことを浴して多くの自由を保たんと欲せるなり」といふ気風のことだ。それは社会的、精神的自由であつた。

小堀桂一郎、田中秀道の兩氏は日本の時代区分に「中世」はないということを互いに相違するアプローチから研究し、上代(かみつよ)と近代(ちかつよ)、古き時代(古世)と新しき時代(新世)の二分法にいたつた。そして近代化(西洋化ではなく)の定義を「法治主義」と「自由主義」の確立とすれば、その萌芽を「御成敗式目」の成立によつたのである。

解釈すれば一見自由(ほしきまま、非難の対象となる)な行為も、道理(法、伝統的習俗)にかなっている限りにおいて「自由」である、といふ制度の成立である。この鎌倉武士の気風、道理と自由は鎌倉期に萌芽したのではなく、もともと日本人が有していた精神であり、ましてや明治維新後に輸入されたものではない。

鈴木正三記念館

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