国民が知っておきたい近現代史 ―明治維新の意義

現在の教育では明治維新から大東亜戦争終戦までの歴史を、比較的良心的な書き方をする教科書でも「明治維新により工業化をはたした日本が人口の爆発による失業問題の解決策として官民上げて大陸進出を奨励し、日清日露戦争に勝利した結果、いよいよ中国侵略の食指をのばした」というような記述をしている。このようなステロタイプな見方では当時の日本が置かれた立場はわからない。
現在我が国では乳幼児の死亡率こそ低いが途上国のそれは未だ改善は見られない。内戦などで国土が荒廃した国民は治安の維持された他国へ難民となり避難するが、国家となるとそうはいかないのである。国土というのは残念ながら移動ができないのもであるから、他国が攻めてきたからと云ってその場から退避することはできない。

よって他国が攻撃してきた場合、国家としては1.相手国の条件をのみ戦争を回避する。2.相手国の条件を拒絶して戦争する。のいずれかなのだ。

1.の場合を人間社会に置き換えればつまりいじめられっ子と同じである。一旦失ったプライドは二度ともとには戻らないのである。2.を選択した場合はもし負けた場合は命を落とすかもしれないが、プライドはのこることになる。

また攻撃してきた相手もケガをすることになるかもしれない。攻撃側の不利益を被るのであれば攻撃を断念するかもしれないので、戦いそのものが起こらないかもしれない。つまり個人も国家も強いものと弱いものの間でしか戦争は理論上起こらないのである。

このような視点を持って我が国の近現代史を地図をもとに考えてみることにしよう。

右の地図はちょうど日露戦争後の東アジア地図だが、独立国はタイと日本のみ、清国は列強に良いように分割され統治された統一国家とは云い難い状況である。

大陸から匕首のように我が国を突き刺そうとしている朝鮮半島は未だ不安定のまま、宗主国である清国やまた南下しようとするロシアの狭間で揺れ動いている。

一方米国は東部13州で英国から独立を果たした後、合法非合法に次々とネイティブアメリカン(アメリカ・インディアン)を虐殺、その土地を収奪して西部海岸までをその勢力下に置くと、今度は太平洋をわたり1898年ハワイを併合する。

ハワイの併合は合法的に行われた。移民をしてある程度の人口になると次に議会をつくるよう要求する。議会は王政廃止共和制移行を訴える。

そしてクーデターが起こし王を幽閉し共和国を樹立する。初代大統領は王政復古を訴える反乱軍を鎮圧すると幽閉していた王を廃位して、併合条約を作成し承認、大統領は初代ハワイ州知事となった。

併合前ハワイのカラカウワ王は明治天皇と会談した時、山階宮定麿王とカイウラニ王女の縁談を持ちかけるも「国力増強に努めている明治新政府にはそこまでの余力はない」として断っているのである。

米国の侵略に対しカラカウワ王は日本との結びつきを強くして米国の侵略に対抗しようとしたのである。しかし未だ国力充実しておらず、米国と事を構えることは得策でないと考えた日本政府はこの申し出を断ることになる。

もし日本政府がこの提案を受けいれていたら、ハワイ王国はもっと長く存続していた可能性がある。

ハワイを手中に収めた米国はさらに"Go West"を強める。独立を手助けする名目で参戦した米西戦争だが、戦争に勝利すると独立間もないフィリピンを1000万ドルでスペインから購入し、植民地化をすすめる。

このとき独立を守ろうとするフィリピンへ派遣されるのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである。日本を占領したダグラス・マッカーサーはアーサーの三男である。アーサーは反抗するフィリピン人60万人を虐殺し、そのままフィリピン総督となる。アーサーは徹底した恐怖政治を敷き反抗するものには厳罰に処した。

それは残虐極まりない処刑方法で後、アメリカ議会でも問題になるくらいであった。

フィリピンを植民地化する前の1853年、米国極東艦隊、通称黒船は日本の浦賀沖にその雄姿を見せ、当時の為政者江戸幕府を震撼させている。

結局処遇に困った幕府はいわゆる「弱腰外交」で―近年国会の答弁で「柳腰」と強弁した官房長官もいたが―、右往左往しその一国平和主義統治能力の限界をさらけ出した。

その後明治維新が起こることになるのは周知の通りであるが、当時の志士達は「2.相手国の条件を拒絶して戦争を選んだ」のであり、その意志が英仏二大列強の支援を呼び込んだのである。

和睦を選んでいたら我々の先祖もハワイかフィリピンのように二等国民として奴隷同然の身分になっていたかもしてないのである。

なぜなら米国は当時世界屈指の人種差別国家であったからである。米国の侵略を俵に足をかけて残したのが明治維新だったのである。

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