小池知事は日本政治の救世主になるのかそれとも独裁者になるのか

平成29年9月28日、天皇陛下が内閣の助言と承認で衆議院を解散する。安倍総理は、消費税の使用目的変更を、国民に問いたいといっているが、天皇陛下の国事行為である、衆議院の解散を少し安易に行っている印象はある。

一方小池都知事は、希望の党を結成し安倍政権批判の受け皿として、総選挙を戦うと宣言している。同党に合流をしている民進党の代議士たちは、口々に保守2大政党政治が必要であるといっている。彼らを含め、安倍総理も常々、自由と民主主義の価値観を共有する保守政治を標榜しているが、保守と自由と民主主義という価値は同居できるのかを池上さん張りに解説してみよう。

にこやかに新党名を発表する小池知事

自由とは不自由である

自由—Freeを福澤諭吉は「不自由に際に生まれる」といった。18世紀くらいまで、欧州でも身勝手などの悪い意味で使用していたという。同じく民主主義(民主政体)—Democracyもずいぶんいかがわしい概念だったと長谷川三千子は指摘し、佐伯啓思は、人間は不自由を受け入れなければ存在できないといっている。国籍、親、子、これらは自分意志と関係なく我々を不自由しているともいえる。通常これらを象徴して「運命」Destinyというが、我々の運命とはお盆の中を転がるボールのようなものだ。お盆の淵がなければただとこかに落ちていくだけだ。自由は不自由がなければ成り立ったない概念だと福澤も長谷川も佐伯も示唆している。

憲法では、このいかがわしい自由を基本的な権利として実定化している。様々な自由権は人間の尊厳を擁護するために公権力に課せられている義務にまでなっている。自由が確保されていない社会は近代社会ではないとまでいわれ、公権力からの自由権獲得は近代社会の成立の要件必要条件である。しかし、先に示したように自由には不自由が必要なのだが、自由社会の不自由とはなんだろう。



民主政体は法の支配で成立する

民主政体を成立させる条件の一つに「ある程度の合意」がある。宗教的、民族、風習、イデオロギーなんでもいいのだが、議決をする側に緩やかな合意がなく、各々が「自由」に意見を主張したのでは民主政体は成り立たない。

そこで民主政体にはもう一つのルールが採用される。「多数決」だ。よって合理的な意見が採用されないということもある。大衆—Massesは合理的意見を選択するわけではないので、今日のこの様な状況ができるのであろう。「万機公論ニ決スベシ」の「公論」とは現在の多数意見のことではなく、通義―過去現在未来を通じての義、正しいとされる考え方、をもった意見に決するということだ。

では公論をどのように大衆から抽出したらよいのだろう、と考えた結果、手続きによる合意ということになる。ある手続きによって成立したことは正しいとする合意のことだ。例に科学的な正もそうだ。いくつかの手続きを経て証明されたことを正とする。正とされたことを正とする合意するという不自由が自由社会の掟なのだ。

もう一つ、過去から現在まで残存している制度や風習などの習俗を自然の法則として、実定化していないが、そういった共通法—Common Lawを発見してそれを尊重する態度を、僕は保守と呼んでいる。そうして、実定化された法律と共通法をまとめて共有法として、その支配に服することを法の支配と定義しよう。

共通法は実定法の誤りを是正する役目を果たすことになる。法の支配を受けることは、人間のパッションを抑止して合意を得る非常に優れた制度だ。王や独裁者も法に従わなければならないという法の支配こそ、愚かなトンビが生んだ鶴なのだ。

保守がない日本の民主主義

民主主義は—国民主権主義とするとわかり易いが、現在の国民による政治という意味では、保守政治と相容れない。民主主義には常にパッションという危険が伴う。国民が自由に自己主張をして、多数決で意思決定をするのでは公論は抽出できない。なので民主主義は共産主義や全体主義、ナチズムを産んだ。よって民主主義には民衆の自由にさせない、法の支配という前提条件が必要になる。

法の支配によって民衆のパッションを抑制し、共通法は過去と現在、未来をつなぐ架け橋となる。そのような政治体制をデモクラシー、民主政体としよう。民主政体は民主主義と保守政治を共存させる制度であると同時に、共産主義や全体主義またナチズムを抑制するのだ。日本の民主主義にかけているのは民主主義でも変更できない共通法に支配されるという精神だ。

しかし民主主義は、紆余曲折があったにもかかわらず、今日まで政治制度として採用されてきたわけだが、それがほころび始めていることはたしかだろう。共産主義も民主主義も人間の統治という意味では同類だ。つまり共産主義と民主主義は、ヨーロッパ中世のキリスト教の抑圧社会からのFreeであり、対極思想でなないのである。

よって、民主主義及び自由民主主義と、共産主義とは異母兄弟のような関係になる。かわいさ余って憎さ百倍というが、兄弟のように反駁するが共存は可能だ。全体主義や独裁主義も同様に出自は同じだ。日本で自民党が社会党と連立政権を樹立することも、民進党が共産党を含めた野党連携を模索するもの、両者が持つ、解放と自由という概念と、人間が主権ということが共通しているからだ。

では、今回の小池新党に集まっているメンバーは自民党にも民進党とも相容れなかった議員ということになる。両党は結局思想的には幅広い人材を受け入れて組織されているにすぎない。自民党は世襲と恩による派閥の論理と無党派獲得のタレント議員、民進党は労働組合のよる推薦と自民党批判による無党派層の獲得のタレント議員という、受け入れの論理が違うだけで、政治理念による集合体ではない。

日本の労働組合も一時の労働者革命を標榜するような過激な運動は影を潜め、資本主義を受け入れつつ、その中で幸福追求をする現実路線になっている。旧社会党が自民党との連立を行ったときが、共産党との最終的決別であった。ところが旧社会党の中で共産党と親和性が高い議員が、その後の政界再編で最終的に民進党の左派を形成することになった。

二大政党が成立するか

小池新党は民進党の中で共産党とは絶対に相容れない議員がベースになって結成される限りは、自民党に対抗しうる勢力になるだろう。しかし、小池知事人気にあやかりたい議員たちが、選挙互助会的に集まると民進党の二の舞になる。自民党も安倍総理が集団的自衛権の行使容認の法制を行ったことに嫌悪感を持っている議員も多く、さらに憲法の改正に至っては明確に反対を表明している議員もいる。

情報社会は、選挙をこれまでの紐帯による選択から情報による選択へ移行させ、世襲制による恩と派閥の論理で議席を獲得している議員と候補者の生き残りを難しくしている。世襲や派閥の論理、タレント性で推薦され議員となり、人間性は欠陥だらけ、あるいは下半身にだらしのない名家のボン、高学歴や元タレント議員が自民党に多いが、有権者はその選択を拒否しつつある。すると政治信条による選択で議席を獲得することになる。

僕は日本における二大政党成立の要件は、①天皇不変の原理の共有②共産主義の否定と非合法化③法の支配、の共有だと考えている。改憲ではまず第一章の改正を優先することと、天皇しらす受け入れを共有することとそれを勢力の排除、そして共有法の尊重だ。この条件を満たした二つの政党が選択しとして選挙する政治が実現するのであれば小池新党を応援したい。

一抹の不安と違和感

しかし、不安がないわけではない。東京都知事候補小池百合子を応援していた、若狭議員のウオールには激励で埋め尽くされたいた―僕も小池さんの投票した、が現在の小池新党を語る若狭さんには避難と罵倒しかない。小池知事も都民ファーストの会の代表として選挙戦を戦いながら、圧勝後は代表を降りたこと、たびたび国政のことを質問する記者に、都民ファーストと回答しながら、結局国政復帰に野心をのぞかせる態度は、はじめから想定できたこととはいえ、東京都民を愚弄する行為にうつる。

今後、党の要綱や改憲案が公になるだろうが、そこに先の要件がうかがえれば、僕は小池新党を受け入れようと思う。勿論候補者に投票するかは候補者の政治信条を検討する必要があるが、概ね受け入れようと思う。判断には②の要件が一つの目安になる。民進党の残党の中で、共産党との連携を模索していた勢力を議席欲しさに受け入れを行うのであれば、小池新党を断固拒否する。この政界再編を共産党を撲滅する好機にしたい。

訂正
タイトルを訂正した。

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