日本国憲法訂正案 プロローグ

憲法改正が現実味を帯びてはや、20年くらいに月日がたっただろうか。自民党が具体的な改正案を提起できたのは、本年3月の自民党憲法改正条文イメージなのだから、遅々として進んでいないというのが現実だろう。その案でさえ「イメージ」というまあ、せいぜいたたき台程度の素案で、これをきちっとした法律文に仕立てるのには、一体あとどれくらいの月日を要するのだろうか?結局この憲法は手を加えられないまま、静かに停止して役目を終えるのではないだろうか。

日本国憲法≒平和憲法≒平和継続というマインドコントロール

日本国憲法が公布されたのは昭和21(1946)年11月3日、施行が翌5月3日、爾来70数年、結果として日本は大きな紛争に巻き込まれずに平和を享受してきたことが、日本国憲法≒平和憲法≒平和継続としてイメージされても仕方ないだろう。

安倍総理を「あべ」と呼んだり、「アベ」と表記してモリ・カケに代表されるゴシップや政策を低俗に非難する一部の人たちの深層には、憲法改正≒平和崩壊≒戦争という前述した対イメージがある。その一部の人が懸念するのは、僕たちとっての期待である憲法改正を実現する―つまり彼らにとっては日本を戦争を導く、のが安倍総理ということなのだろう。

自らが戦争を欲しなければ戦争は起こらないとだろうという自分本位な発想が、「平和憲法」さえ護持すれば平和が永遠に継続する、というおまじないかゲン担ぎに近い発想の共有が間違いなく存在するように思える。

このおまじないかゲン担ぎ、またはルーティーンもしくはシンボルである日本国憲法≒世界に類を見ない平和憲法を改正することによって崩壊するいうイメージから、憲法改正をかたくなに拒絶する理由だろう考えている。だから憲法改正にはこの呪縛を解き多くの国民をマインドコントロールから解放するプロセスが必要になる。

 解日本国憲法≒平和継続

日本国憲法≠平和継続というマインドコントロールを解くカギは、 日本国憲法≒平和憲法≒平和継続というイメージをまず否定する必要がある。平和憲法≒平和継続はマインドコントロールの手法の一つで、短いセンテンスの言葉を繰り返し使い、思想や思考をある一定の方向に導くことができるというものだ。「平和、平和」の韻は歌の歌詞のように我々の記憶に入り込み、思考を知らず知らずのうちに両者を関連付けることに成功させたといえる。

また、たくさんの選択肢から同じ結論を導くこともマインドコントロールの手法で、「平和継続」という結果はもう一つの事実「 憲法護持」と上手に結び付けられて議論されてきた。同時に情報の操作はその事実をより権威的にさせる効果があった。戦争メカニズムの科学に平和憲法という抑止力があった、という記述は見当たらない。

こういったマインドコントロールを解く方法はすでに多くの心理学の研究で確立されている。その中の一つに反対をイメージするという方法がある。日本国憲法≒平和継続という連関イメージは、日本国憲法改正≒平和継続にという事実を示すだけで、改正が戦争への蓋然性を高めない、もしくは戦争が起こってもそれが改正と連関がないとわかる。

蜃気楼は事実ではない

護憲派の心配は日本国憲法9条の変更もしくは削除なのだろう。自民党が提示した改正イメージもそこに配慮した加憲という内容だった。
第9条の2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
2 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。 
憲法9条の議論は拙著でふれているのここでは詳述しないが、 9条もその精神もがなくなることはない。平和条項として継承されるか前文によって規定されるかどうかの違いだけだ。—ちなみの私の新憲法案では前文で規定している。このように憲法9条という条文はなくなることはないばかりか、平和を祈念する規定をなくすことは多くの国民も望まないだろう。

このように護憲を支持する国民は憲法改正が平和の破壊というイメージを護ることで憲法改正を阻止してきた。一方多くの国民も結果平和だった体験を正当化する手段として、あるいは平和を維持するという努力をしない平和の継続に錯覚してしまい、護憲派の主張を受け入れてきた。しかしその条文に誰でもわかる瑕疵があったとしらどうだろう。

いくつか訂正した方がいい条文がある

日本国憲法を標準的なテキストで勉強するといくつかの不完全な用法があることに気が付く。形式的にも議会審議を経て決議を終え御名御璽を拝した日本国憲法典であるのだから、公務員は遵守することはもとより(99条)日本国民も尊重しなければならないのは当然だろう。

であるからその文章はわかりやすく、文言の統一性はもちろん、具体性においても、その使用には細心注意が必要だろう。ところが、日本国憲法の条文には法律文としての統一性や具体性が欠けている文言がいくつかある。また標準的な日本語としておかしくはないがより正しい使い方がある文言もある。

僕はまずそれらを条文の意図にそうよう、訂正(文法や用法の間違いなのだからあえて改正ではなく訂正とした)してはどうだろうかと思う。具体的には3箇所あり、1つ目は前文、2つ目は21条、3つ目は22条だ。これからそれらについて論じてみよう。